六面の書架に、およそ二千冊の本が納まっている部屋の片隅で、煌煌とするモニター。天井の照明器具が消され、緑色の星星が蛍光塗料によりロマンティックさをかもしだす役割。
 古い映像が映っている。白い顔が浮かびあがった。不敵な笑みを口元にたたえたまま。死にもの狂いで働いてきた年月を、皆勤賞の賞状のある棚に視線を動かすことで、回想してみた。別に好きで入社した企業ではない。嘔吐感を覚える画面に関心を持ちつつ、いまを己の人生を振り返る時間に充てることにした。巡り巡って、ところかわって、流れ流れて、ついにここまでやってきたわけだ。まだまだ、これからだが。
 ずっと不毛で、滑稽な完全なる《ブロッタス、陸まもか》状態であった期間。ヘテロな恋は二度ほどしたが、ハードゲイなインディーズ映画を撮り続け、ときには「旧姓山田」なんていう主婦映画を創るには創ったが、根底には、ワイルド・ボーイズな、男男男のなかで、もみくちゃになっては、しごき続け、しごかれ続けた青春だった。そんな陰茎が放尿するだけの機能となりかけた社会人も十年選手になったナイスサーティーズのあの季節に《別嬪熟桜》状態に陥ろうとは、いったい誰が予見していたといえよう。あまりにベタ過ぎて、みなスルーしていた、自分さえも意識の外に置いていた欲望だったのだ。
 妻は、中国人だ。ホモと猫を飼えば、悠悠自適な残りの命が送られると、心に決めてはいたのだが、やはり人生っていう奴は普通の処理ではうまくいかないものだ。さらに、身重の妻を置いて、まったくもって平和な王国を離れ、舞い戻る原因を作った災いが起きようとは、兎角、この世は騒がしい。
 三島が産声をあげた一年前の思想家の誕生日に、彼は息をひきとった。享年四十五才。不惑のなんたるかを知ったか知らずか、逝った。映像は、スタッフロールも終わり、いつのまにか砂嵐になっていた。ほどなくして、ブルーバックに。リモコンで、画面表示を誤って切り換えたのだ。取り出しボタンを押して、ビデオテープをつかんだ。《もう離しはしない》と、曖昧な歌を口ずさむ。
 彼のむくろが収められたビデオテープ。もう観ることもないだろう。座椅子で痺れた両足を伸ばす。このモニターは、テレビ受信されない。隣室に大画面のプラズマがある。なぜ、そちらで観ないのか。それは、この部屋にあるのが、テレビデオなので。ビデオデッキは、内蔵されているこれしかないというわけ。映画の棚に、持っているものを差し入れた。
 今日は、高名な作家の誕生日だった。時計は天辺を回った、正確には昨日だ。彼は、役者もしていた。ファンデーションを身体に塗りたくり、白装束みたいなありあわせの布をはおり、木によじ登って、バイオリンを弾く。木を降りて、数歩まえに進むと、そこでずっこける。首に楽器を挟んでいたままなので、激しく耳のあたりを打つ。こんなみじめな思いは初めてだ。もう、役者はやめよう、きっぱりと作家との両立に別れを告げることを、倒れている姿勢を片膝ついて立ちあがらせるとき決意する。
 寒月君! 思わず、独ごちる。彼は、そのままの勢いを続けた。取り巻きの連中も、無視し、途轍もなく臆病なのに、垣根を越えて、ずんずん波頭の見えるところまで突っ切っていってしまった。カモメが尾羽を震わせ、飛んでいる。もうすぐ陽が暮れる。そしたら、フィルムには、どうしても俺は映らなくなる。最高だ! 俺はインビジブルマンになるんだ。興奮と熱狂で、奥歯がガタガタする。止まれ! 止まるんだ!
 このあと彼は、作家プロパーとして進むことになり、夜の十二時を越えたときに、実家の書庫に籠り、あてどもない思考にすべてをゆだねている。隅田川、六月、錠剤三十粒、ウォッカ、『心変わり』の付箋、悔恨、ワイドショー、インタビュー、素姓。証言VTR、性交、一万二千円、青春、沈黙、代償、徒歩、自転車、左回り、警官、新宿、原宿、ファミレス、靴、財布、睡魔、ボストンバッグ、浅草、京都、駅弁、桂川、畑。
 びしょ濡れた靴を履いている。青い影が前方をかすめ、なにかと思う暇を与えず、香水の匂いが鼻腔を刺激した。影は、青そして赤になり、地下鉄の昇降口へと消えた。さっきより、胸の底に感じる、震えが止まらない。今朝、体調にはよからぬ兆しがあった。動悸もする。座椅子を求めて、ハシゴを登ると、歌声が聴こえる。静かな旋律だ。靴を脱ぎ、ロフトを物色する。蒲団が敷いてある。ここでしばらく休ませてもらおう。
 俺は誰だ! 訊くがなんの答えも返ってこない。寝袋に収まっている身は、節節が痛んでいる。雨風をしのげるだけでも、助かる。東京駅の「銀の鈴広場」のエスカレーター下にいる。モニターには、ICUのベッドにあおむいて目を閉じ、呼吸器をくわえた女。彼女は、インド人だ。家族旅行のさい、立ち寄った映画館で上映されていた映像のワンシーン。俺は、涙した。妻と子、母、兄ともども、みんな哀しい気持ちになった。
 樹木に絡まって、種種の機械類が見え隠れしていた。青と赤のコードが、幾度も交差して、全体を覆ってしまう。熱がコードにより循環し、巨大な分配器に統合するさまは圧巻だ。極めつけは、巨木の中央に位置するモニター画面の女の美しい顔が、電波の異常か、にわかに歪み始め、暗転したかと思えば、雷に打たれたように、光が瞬き、すべてが燃えあがってしまうという惨事のあらましを、あたりまえといった風情でいってのけてしまう、我我のなか誰にでも住む小悪魔の存在だろうか、この樹木の現象は、全員が創った。長い歴史のうちに。
 世界のノイズを集積した音源で奏でる「音のキマイラ」たる映画。蛍光灯に照らされ、神秘主義者は、深夜に笑う。空談、記号論、色色と瞑想する。不可能性。『桃太郎』を知らない子どもたちを、優先して招待した。座席に着いても、入口前で行列のとき、ロビーでの待機のときなども、みな精いっぱいに張りあげた声で騒いでいる。上映開始後も、その勢いはまるで止まらず、会が崩壊した。
 願わくは、憐れな迷羊をお救いください、アーメン。でたらめな祈りを捧げ、家族は食卓を囲み、口口に皿に盛られた中華料理を運ぶ。オリーブオイルで、炒めた食事をつつがなく摂りつつも、関心は聖なるテレビ画面に注がれていた。多くの目はまったくの隙も与えないといった、神経質な表情の上にある。
 その対象の除外を受けるものは俺だけである。箸を不器用に左手に持ち、炒った空豆を食べた。シャンデリアの電球は、すべて揃っているわけではなく、ほの暗い灯りのもと、黙黙と風味豊かな料理をどんどん消していく。色鮮やかな受像機に、興味がないというのではない。どちらかといえば、大ありだ。でも、背を向ける。理由なんてものはない。おのおの、盆に所狭しに、居並ぶ皿を空にするころ、テレビを観るも観ないも自分、同じ人間、それぞれの可能性、二律背反、なんとしてでもデタント、「猿人☆背反」などという泳ぐような思考の流れが俺になされていた。
 ふと、器を見ていたのをやめ顔をあげ、我らの面構えを、あらためて眺めてみた。みんな疲れていた。俺だけ、なにもせず、毎日ゴロゴロしている。死にたくなった。テレビを消し、そそくさと部屋を出る。
       *
 ジレンマとパラドックスの違いなどを、頭の片隅で考え続け、アパートの近所を歩いている。オリュンポス。『悲劇の誕生』か。名古屋で活動していたころ、意中の女に、アポロン的なオリュンポスの神神について、力説したものだ。馬鹿だった。救いようがない。ふむ。矛盾と逆説か。八百屋で大根を買う。映画の小道具に使用するのだ。包丁で線をつけ、衝撃で割れやすいようにした。
 神神との合一。ブルトンも引きあいに出して、既知と未知について、電車で講釈を垂れたもんだ。若かった、ひどく、若い。テンガロンハットをかぶり、軽薄な笑みをたたえた女と、色白で眼鏡の奥がきつい目つきの男を、愚弄し、ののしった。だが切った刀で即、己に太刀を振るように、自分を強く否定した。否、続けて否、三度否! これでおあいこにしてくれ。疲れた。明日の撮影に備えて、早寝しよう。
 枕頭の書は、『阿呆物語』だ。早寝といえども眠けが去来するまで、うつぶせの姿勢で、蛍光灯に包まれた快適な空間のなか、本を読む。といっても手垢のついた文庫を開いて持っていると、パラフィン紙が覆う、汚れた表紙や、焼けた小口に、大量のチャタテ虫が発生してこないかと、怖れる。さらには腰が負担に耐えかね、痛みが走る。読書は格闘技だ。全身の不調と戦わなければならない。阿佐ヶ谷のアパートの窓に、風が吹きつける。カーテンで音が幾らか遮音されていた。
 寒風が都市を荒し、日づけ変更間近の時間帯では世界で、様様なテレビ番組が放送され、また数えられないほどの書物が、それぞれに名のあるひとたちによって、読まれ、脳に染み込まれている。遥か海を渡ったダブリンでは、『ダブリナーズ』を、そしてここ東京では『我輩は猫である』を誰かしかが拝読している。それは当然のようで、奇跡なのだ。ひとが生まれ、生き、死んでいく真実と同じ意味で。だからこそ償われなければならない。それはごく一部の話で、ほとんどの地球上、いや宇宙では、まったく別の顔をし続けていることに。思いあがってはならない。言葉は、まだ派生して間もなく、なんら発達しているわけではないと。いまだ未完成で、意思疎通は覚束ず、なんら実益となることは皆無なのだ。買いかぶってはならない。およそ人類を動かしているのは、わずかなリテラシーなのではない。少数派なのだ、圧倒的に。
 眉唾物の国国で、ありがたそうに拝読する書店に嫌なほど山積みされた小説群のなんと卑俗なことか。いや、小説に限ったことじゃない。ありとあらゆる情報伝達の道具が浅ましいのだ。俺は、なにも信じないぞ、すべては無だ! 映画が、音楽が、詩が、テレビが、ラジオが、コンピュータが、電話が、俺を休むことなく攻め続ける。俺は負けない。断じて戦う。死ぬまで戦い抜くのだ。
 しかしながら、我は、人生の辛苦がもたらす挫折において、何度も文化に救われてきた。歴史ある民族文化とは違う都市文化に。バイブルのささやきがCDとなり伝承口語りが商品になる。狂熱のダンスは、映画体験へと移りかわった。だが、それで精神を病み始めたもの事実。なにもかも、美しいとばかりはいえないようでいて、人生の横顔は、どんな光の下でも、素晴らしい、と俺はいってみたい。
 アカデミズムと市場原理に引き裂かれるなか、どっちにも活路はあらわれずに、《根源的衝動》は麻痺し、《惰性的な労働》に馴致され、しまいには、芸術家になる夢も誇大妄想化して、見くだす笑の種になり、あわわあわわと、溺れかけて、顔だけ水面上に覗き、必死で息だけ吸っている死に体。器官が脈打っている気がしません。日常に燃やされてゆく。俺は不燃ごみではなく、可燃ごみだった事実を知ることになる。神よ、ぜんぶ死んでくれ。
 俺の神は、亡くなった父だけだ。ほかの神はいない。父を失わないと、神とは思わなかった。神は消滅してこそ、神たれる。すでに、すべての神は、ニーチェを待たずとも、廃棄されていたのだ。だが、神は不死だと思っている。神は、もっとはかない、心もとない、記憶に静かに刻印され続けている、網膜の残像でしかない。なにも語らず、なにも求めず、なにも見えない、苔むす石のような存在さえ判らないもの。苔に隠れていた石ころ。なにもかもが物質に隠れ潜む、そして、俺たちの家族を暖かく包んでくれる、命の源泉にして、死ぬまでの街を呑むほどの、とてつもなく巨大な保育器の創造者。
 そこで、脚本を書き、撮影をする。だが、もう劇映画は撮ることができなくなった。資金面でも健康面でも思想面でも。しかし、映像詩人として、やはり糊口をしのぐことは無理だから、テレビの仕事で生活費も制作費も稼ぐ。仕事に追われ、芸術習慣を実践したいのだが、創作はたまの休日にしか行えないありさま。
 善悪ではない、好き嫌いの価値があるだけだ。コロコロと秒速で千変万化する、絶対価値の領域。消費ではなく、創造を。ネットで巡りあった、あの馬鹿二人のすることはしたくない。続いている寝返りを打っての思索は終わらない。ブロックを古畳の上に置いて、浮かした即席の板張りのベッドに、うつむけになり、枕が左耳を押さえ、首は右を反面向き、局部をマットレスに強く当てる。思索に耽りすぎて、『阿呆物語』は放り投げた。
 沈潜した海馬が、おぼろげに像を結び、雨に濡れ輝いた合羽着の男を召喚させる。男は顎に無精ひげを生やし、しょう液まみれの口元を開き、重たく声を発す。雨足が速く、男のか細い声音は、自然のうちに掻消える。ボリボリ合羽の上っ面を、右手で太ももまで伸ばしてみるが、隔靴掻痒でかゆみは治まらない。ひとっ風呂浴びたい。男は、町中を歩き回る。
 ベッドの縁に座り、どんよりとして辞書を読む。華やかな照明の笠に、視線を送り、裏面は装飾過多ではないことを認める行為は、眠れない夜では定番と化している。眼鏡の裏に、指を入れて、目を掻く。顎をあげる。雨合羽の男、同様に。静かな闘志が沸沸と湧きあがる兆しが確かに昔はあった。
 閑古鳥が忙しく忙しく鳴く曇り空のもと、鄙びた温泉宿の屋上遊技場で、アイスキャンディーを舐め、女の姿態に興味をやる。片手での軽い前戯のあと、おもむろに浴衣のまえをはだけ、ボクサーブリーフに隆起した陰茎が、恥ずかしげもなく、対象の瞳に、綺麗に映り込んでいる錯覚をしてしまうような、そんな焼け爛れた死体を、網膜に収め、さらなるときの無慈悲を拡大させないよう、そっと舌を使って眼球をさっと目尻、目頭と順に這わせてみた。
 夜通しくり返される余興に、幾分不満である。天井に吊り下がった雨よけのビニルシートをあおいで、くさめをした。飛んだ唾液が顔面を襲う。不快だ。著しく。空気も澱み、尻が痛い。痔だ。膿んではない。険しい表情で、忘れかけのメロディを口ずさもうとも、イントロにしてみてもなかなか閃かないので難渋する。俺は死んだんじゃないのか。自問自答を試みてみようとも答えはどこからも湧いてこなかった。
 笑止千万、十姉妹に育てられたみたいな人生だった。いや、俺が十姉妹なのか。愛息の名は、なんといったか。愛嬢か。いまとなっては、どちらでもいい。いつのまにか、股間がむき出しになり、直に外気が曝しているが、いまあおむけになったここでは、陰茎は膨らんだ腹が邪魔になって見えなかった。全身に張り巡らされている、疲れ切った神経の束に、適当な打撃を与えねば眠れない。
 もぞもぞと股間をまさぐってみても、心底、刺激的な少年期の戸惑いと罪悪感に埋め尽くされた、真っ直ぐな像へのアプローチは消えていた。昔の女たちを召喚して、なんとか関の山を越えようとする。バストが豊かな女、年増の妖艶な女、ベレー帽の文化系女子、背の小さな瞳のクリクリした女、微細な骨の壊れそうなテクスチャーや、かぐわしい髪の香りを想像する。
 いまは冬じゃないのか。掛け蒲団がめくれている。季節は死んでいた。アパートを見あげる格好で、雨合羽の男が、灯りの落ちた二階の角部屋にいる自分を思って固まっていた。眼球は充血し、眼鏡は水滴で覆われ、鼻は赤く、涎を垂らし、喉は虚無により締めつけられている。明日の朝まで待つことはない。男は脳内でそろばんを弾いた。俺と奴は同じ穴の狢よ。
 錆びついた階段を登って、歯を軋ませ、山之手を立ち、阿佐ヶ谷に到着した旅程を偲ぶ。サザンカの花弁が、鼻先をかすめ、ヒヤシンスの球根が幾つも降ってくる。掌には青首大根。俺は、森副にとどめを刺すため、彼の住処を襲撃しようとしている。放置自転車横領の罪で、警察に指紋、掌紋記録があるので、軍手をはめたが、大根の太く丸いフィットのしやすさは、高鳴る緊張をほぐすにはあまりある、のどかさを俺に与えていた。有望株な映画監督のうしろの門を犯すことが、俺の使命だ。
 ビニルの合羽が、視野を切るようにまえへ垂れさがってきた。慌てて、空いている右手でうしろに押し戻す。鋼鉄の臭いが嗅覚をつく。雨足はさらに強まり、玄関扉に、無事に立てた俺は、深呼吸をする。俺はずっと独りで監禁されてきた。明日、また還る。
       *
“NAME”と“NAMAE”は似ている。学力テストを解きながら、時計をうかがって、ふとそんな閃きが浮かんだことを思い起こす。まさかこのとき、己が二十一才で、就職でも進学でもなく、上京する破目に陥ろうとは、東京二十三区を暗記して答えたクラスメイトがいても、なにも感じず、地方局と在京キー局の繋がりを得意げに先生に教える女子二人組がいても、まったく心が動かなかったように、まるで意外なこの世の選択で、夢にも思わないことだった。でもこれを記憶している、ということはやっぱりどこか意識していたのだろう。ただ地元を逃れるための作戦でしかなかったわけだが。《消極的の修養》とは違う、甘えと情けなさを圧縮したもの。発展的解消といえるなら、いいのだけれど。しかし、そんなんじゃあ、長続きするはずなく、次第にどんどん追い詰められて、死ぬような屈辱を味わい尽くすことになる。あのとき、上京さえしていなかったら。また中学に戻り、歯の矯正も側わん症も早期治療して、無事に進学校に通えられれば、いまごろゲーム作家か、アニメの監督になっていただろう。
 糞っ垂れの授業と、疲労と倦怠しかないクラブを終え、慣れない自転車下校のさいは、従兄弟の百科事典丸暗記の科学クイズを得意げに問われ、家の庭で出迎える野良猫も感じ悪く尻尾を膨らませすり寄り、大嫌いな祖母が偉らぶって母を批判し、兄は引きこもり、父は、父はいなかったか。あとは、楽しみとは決していえない、病的な囚われようの在京球団の応援をしていた。やはり東京に憧れていたんだろう。負けるたびに、陰鬱なムードになった。家にあった地元のチームのキャップがきつくてやだった。
 ディズニーランドにいった修学旅行の直後に、不登校になった、というのもなにか東京への意識が働いたのか。だが、ひとは鷹の目を持って自覚して生きるものではないのだ。総じて、近視眼になる。夢は過去のなかにある。
 奥の部屋で、南向きの襖を開けば即、祖母の臨終の場、存在を惰眠のただなかに消尽させ、北側の窓のカーテンから陽が差し込む頃合を耐え、天頂に太陽が昇るまえに起床する。そして東南の引き戸を使い廊下を歩く。トイレにティッシュを流して、アウトサイダーのつもりで、洗顔はせず、手も洗わずに子ども部屋へ移動する。兄が起きて待っている。テレビは点いており、二人揃ってお昼のバラエティー番組を習慣で観る。日替わりの芸能人の顔と名前を覚えるのが、楽しい。
《花輪が少なく、ぼくも兄も知らない作家でした。名前は、黒野顕昭。いつもは中国に住んでいて、今回、仕事で東京にきたとか。ジャンルは、SFのよう。若いのころの話をしていた。お友達紹介では、これも作家の大葉禮人というひとに電話していた。兄が急にテレビをリモコンで消した。こんなこといつもしないのに。昼ごはんは、レトルトのハンバーグに、ミックスベジタブル。これは定番。》
 戯れに、昔の日記を抜粋してみた。いまなら理解できる。黒野と大葉が誰なのか。なぜ兄は、スイッチを切ったのか。そよ風さえ吹かない、鉄扉と小口、防護窓を除いて壁に囲われた室内で、まぶしすぎる蛍光灯をにらみつけている。正確な時間は不明だが、さっき夕食を済ませてので、まだ七時くらいだろうか。下着も靴下も無論ほかの衣服もずっと替えていない。
 水洗の洋式トイレが、目立って備えつけてある。汚物を流すには、外のレバーで行う仕組みだ。いまいる五号室は、もっとも一号棟への出入口と離れていて、洋式トイレがあるのはここだけだ。ほかの収容者たちが扉を叩いたり、でかい声で騒いだりしている。ひとを呼んでいるのだ。
 東に取り憑かれた家系だ。父も兄も僕も。そして母は関東が故郷だ。みな東京で敗れ、東海に逃げのびて、やがて死んだ。己も最早、消え去ったようなものだ。
 定まらぬ視点をなんとか机に釘づけたくても、頭がフラフラして、意識さえ集中できない。まぶたを閉じ、サイケデリックな光の変化にとまどいを覚えつつも、いつか東京で見た映像ともシンクロし、さきほど書きつけた文言を確認する意欲とともに、昼間の食堂の風景に帰還した。日記を破り捨てた。すぐひとびとが飛んでくる。力づくで取り囲まれ、滑るようにして、また部屋に閉じ込められた。ちぎれたページを、手に握っていた。口から吐いた血をむしった髪ですくって、グチャグチャの紙片に、文章を書いている。
 清潔になったはいいが、誰かのジュバンを着てしまった。神がお怒りになる。勇気のだ。まず間違いない。自由が鏡のまえで、独特のポージングをする。アンドロメダが、温風を吹く。隣室では、殺し屋が演歌を放吟している。喫茶店経営の夢は幻となった。太陽が昇ったら、あの殺し屋に己の命をくれてやろう。
 久し振りに脱いだ靴下のせいで、左足の親指の爪がめくれてしまっていた。はがれ落ちんばかりのみじめな爪のうちで、角に生えてきた新しい息吹が、もう若い芽をつけている。ひとに相談したら、はぎ取ることになった。隣の津波が己の動作を真似して、靴下を脱ぎ、片脚立ちをしている。いったい何日、寝る夜もずっと履き通しだったのか判らない。死ぬまで施設にいるんだろうか。二号棟で。何度も脱出を早めようと首吊りを屋内で試みたが、ことごとく失敗した。ここで、血の文字が紙片いっぱいになる。
 糞尿にまみれた東京での暮らしをいくら総括したくても、いかんともしがたい。バキュームカーの掃除を、朝ともなく夜ともなく、くり返していた。給料は、すべて宵越しの金はもたないと、江戸っ子ではなく三河の田舎侍もとい水呑百姓なのに使い切るありさま。馬鹿に馬鹿をかけた、低俗極まりない、金遣いが荒いことだけが飛び抜けただけのずぼら野郎だった。あの生活があるので、いまの状況というわけだ。
 制服を着たランドセル姿の児童たちが、途ゆく先の小さな公園で、甲高い声をあげて、なにやら騒いでいる。どうやら眼前に迫ってきた国際的なスポーツの祭典のことで、ふざけあっている様子なのが、だんだん公園横を通り過ぎ、児童たちの確認を、わざわざ振り向かないと判然としない位置関係になって、ますます情勢が激しくになり、固有名詞が飛び交ううえで、理解のつっかえがようやく取り払われ合点がいった。
 異性を漁れるだけ、漁っているのが常態になると、外が億劫になる。電話でアパートまできてもらうだけなので。必需品は、その都度、女たちが買ってきてくれるので、ほとんど仕事のほかでは、家にこもっていてもなに不自由しない。特に日曜にうちにいられないのは不快。家でゆっくり恋人を抱くだけ、抱いて寝ていたい。でもこのケースは事情が違う。狙いの児童公園に着くと、やおら水道口が勢いよく飛沫を噴出した。例の少女がいた。
 夜、ビクビクして、細かく注意を払い且つ怪しまれないために平然を装って、闇を裂く。照明が物淋しく、公園の輪郭を闇に浮きあがらせている。おもむろに、ベルトを緩め、パンツを降ろした。靴を脱ぎ、パンツと下着を足先にさげ、抜けさせると、下半身があらわのまま、再び靴を履き、水飲み場によじ登って、肛門めがけて、しぶきを放った。白目になり、急いで股間をしごく。もちろん脳では、少女の唇を想像している。
 実在しない零細企業をでっちあげ、神と悪魔が紡いで製作した掛け蒲団のなかに、胎児のように丸まって寝ていると、びっしょりと汗をかいた掌に、柔らかな感触を確かに覚え、それが彼女のパンティであると知ることに、まだ時間がかかった。絶対外出禁止、共同スペースや洗面台へおもむくときも監視つき。そんな状態で彼女のものを手に持つとは、オーパーツの奇跡でも起きたのか。まったく見当がつかないばかりか、狐につままれたかのごとく放心。
 うちがいいけど、誘惑に負けてしまう東京暮らし、皮肉にも願いが叶ったのか内にこもるだけのいま。思念が黒い塊になって、穴という穴をふさいでいる。昼、食堂の窓の眺めは墓地が広がっていて、ときどきおばあさんが削れた山肌の側道を歩く姿。うしろのほうで、なにやら大きな音がして振り返ると、作業員二名が脚立で天井を開け、ライトで機械を調べている。火災報知器だろうか。もとの通り座り直して、またぞろ日記の書き写しに根詰める。
 真冬の寒さをまったく感じさせない、温暖な建屋でぬくぬくと筆を走らせているのだが、窓際の観葉植物のバケツ横に、なにやら紙の束が置かれているのに、ときたま筆休めに窓外の例の景色をぼんやりと楽しむなか、ふいに気づいた。新聞紙かなにかか。目星をつけ、特になんの疑問を抱かぬまま、時間は過ぎ、夕食の頃合になったので、仮のベッドルームに、日記、メモ帳、筆記用具をしまいにいった。
 九つのグループがあるうちの、中央北端がいつもの席だ。そこの五脚の椅子が囲むテーブルで、南側下手が指定席。さっき隣に松枝が、ぶつぶついいいい遅れて座った。彼と同じ席で食事するのは初めて。基本、どこでも構わない。名札つきの食膳が、係員によって次次に、腹をすかした迷羊に配られていく。松枝のが、先にきた。彼は、ごはん茶碗に箸を突っ立てると、ぐるぐる回して、料理への愚痴をつのらせていた。
 眼前の双眸のきつい男が、右のお誕生日席に構える男が、いや食堂にいる男女みんなが罵詈讒謗を浴びせかけてくる。うわー! 全部食べる! 給湯器でお茶を注いで、茶漬けにして、胃にあとからあとから落としてゆく。放火だ! 松枝が夜、観葉植物のバケツの横に置かれていた新聞紙の束に火を点け、施設を焼き焦がすつもりだ! なんとか止めねば! トイレに駆ける。そこには神がいた。燃えそうな紙屑を探したが、なにもなかった。流しの鏡を見ると、津波が隣で歯を磨いている。
       *
 冬が三寒四温の歩みで、終わりを告げようとしている夜半の断片に、窓と遮音カーテンをピッタリ閉ざした、まだ肌寒い室内が投射され焼き尽き、まるで瞳に聖痕を押されたかのような揺るぎない視線で、自然に帰っていく獣のごとく、寝息をたてる幼子を眺める。
 加湿器の蒸気が、確認できないのに順調に拡散されている模様を、湿度計の光った数字とともに目に収め、襖を開閉して、座敷を抜ける。長廊下を二階に続く階段は登らずに渡り、玄関ホールをまたいで、東向きの六畳間に入った。カーディガンを、竿にハンガーで吊り、パジャマの裾をゴムの締めつけでたくし込む。眼鏡を外し、衣裳ケースの上に置いた。明日は、日曜だが、あまり寝られそうにない。
 灯りを消すと、伸びている影が闇と溶けあった。影を退場させたはずが、身体に張りつき脳をジャックされた内面で、背筋に疲れが刺激となって、電流が走ったような感覚を受ける。掛け蒲団に抱かれ、枕に頭部を深深と埋め、すましきった表情で夢魔の訪れを待つ。にわかに股間が濡れる。喘ぎ声にも取られる息を吐く。ことは起こさず、今宵の処理は夢魔に任せよう。深呼吸をして、寝る向きを横にした。
 愚鈍の神の降臨。物欲しげに天井を見ると、三つの染みがある。闇に慣れ、欲情が漠とした精神に移された心象風景のなか、己ら家族を投影する染みを凝視している。タナトスを抑え、糸をたぐるように、人生の分岐点の考察にモードを別にした。出てくるものは、東京で大きなスポーツの祭典が開かれたときに、はやっていた曲の旋律。映画「お笑い目次録」の主題歌。確か、ノイ・ズバンコ・熊温度で、「帆立て! ローマの座頭」。つまらないことにメインのメロディとおぼろげな歌詞しか覚えてなかった。映画の監督は森副さんで、バンドのサブボーカルをお兄さんがしていた。カサカサした皮膚を拠りどころに、暖かい情念、湧きあがる衝動を手なづけ、常態に回帰するようにしかけたら、なんだか反発力が強くて裸で叫び激走する男の姿があのときの彼と二重写しになる。
 毎日、新聞を拡げ、怒り肩で食い入るように読んでいる。哀しくて、淋しくて、つらいことだけの世は、くり返すことで、死の呪縛をなぜか緩和してくれて、暮れかかる夕陽は、涙をいっぱい浮かべた泣きべその顔に、宇宙誕生の合唱を聴き、死んでも復活して立ちあがる勇者みたいなたたずまいを与えた。確かに。でも、混ぜこぜの考えがずっとあとにしてきた難題を解決するため、フルパワーで熱されて、サーキットは結局、機能を失う。
 あてどもなく、たどっていた、千切れんばかりの細い紐は、プツンと断たれる寸前にお父さんは、蒲田に憧れたの? と元気な声が響いて、すぐにも緩んだ。なんだ、ひゆかい。またお兄さんに教えてもらったの。電話が鳴っている。きっと祖母だ。カマタ体験ってなに? おじさんは神秘体験っていってなかった、お母さんもよく訊いてないのよ、本当は二十六才までに文学を果たそうとして、日常に追われて書けなくて、死のうとした。《僕だけ絶滅していた。いま小説に挑めば「絶滅小説」になるだろう》土曜、ゆきつけの書店で、ぎゅうぎゅうの棚に、文芸誌を一冊だけ探求した。どうとでもなる残りに、いくら期待してみても、たかが知れている。閉め切りの埃っぽい部屋で、咳をしている。どこからともなく、未来っぽい電子音が毎朝のように聴こえてくるのにも、もう慣れた。
 口惜しい彼の陰惨な事件が、二人を離れ離れにしたが、それは長い視野を持てば、幸福への最短距離の鈍重な始まりだったのかもしれない。いまでも続いているよ、としたり顔の染みが湧いてきて天井が彼の首を締める。同床異夢を引き裂いた夜の数数はいくら勘定してみたって、さしたる成果はあがらず、ただ平坦とした途行きが展開される模様なのだが、これを幸福といえば、そのようにいえるかもしれないし、なんの変化もない非革命的な世界が、まさに天を衝くような転倒の毎日なのかもしれない。
 しかしそれに対して、と彼は我論を進める高慢な態度で、天井いっぱいに増え広がって口口にしゃべり出す。要約すれば、ボタボタ涎を垂らして、ゴクンと唾を飲んで、ヒヒヒと笑って、鼻歌を合唱して、最後にあわさって、屁をこいて終わった。冗談はさておき、彼は胸を張ると、大きく声を出して、きみの人間性が崩壊したなかで、どっこい負けずにいられるだろうか、とやけに柄にもないことをいう。
 犬のような生活。辛抱なるか。こんなこたあ、造作もないこと。黒い雲が、雨の到来を教えてくれるように、犬こそがもともとのありかたを教えてくれる。犬だけが自由なんだ。ワン。糞まみれの人生で、いいじゃないか。影は白く輝き、上より下へと降り立った。発光を続け、全体の形を整えていく。人型だ。貧弱な彼の裸になる。下半身は、エレクトしたままで、首にバスタオルを巻いていて、ひどく滑稽だ。
 しじまのなかで、桃色の蒲団カバーの縁にそっと彼は座った。感覚としておもむきが澱んだ寝室は、照りつける光線により、隅隅を照らし、無用の品が見る間に朽ちていった。モノトーン・エルモは、目玉が落ち窪んで、首は崩れた。牛のプラスティック製の空貯金箱も、腹が内側に押されて、背中に円い穴が開いた。ガラスの天使は、真っ二つに裂けた。こけしは、黒く縮んだ。
 小物だけではない。家具類、壁、カーテン、畳、天井も黒ずむ。犬になっちゃダメだよ。口唇の周りに細密な黒点が確認できるほど、近づく、明るい。舌がチロチロとして、口蓋垂を認められるぐらい欠伸をする。皮膚の奥もオワンクラゲみたいに透けて光っているのだ。尋常じゃないまぶしさに瞳が焼かれ、直視するのが限界に達し、好奇心と比べ危険反応が勝り、双眸をそらす。本意ではないため、もうどうしようもないほど疲れていたが、彼の肩を押して身体を起こした。
 眺める余裕は最早なく、憔悴し切っているだろう自分の表情を想像するにつけ、不快感を相手に与えるのがいやで、言葉を紡ごうと思うけど、口を出たものは、嗚咽になってしまった。長い間、それは止まらず、ごめんね、を幾度となく、くり返すだけ。いつまでも二人が初めて会った場面が脳髄にフラッシュバックする。うらぶれた関係を立て直すべく、決死の覚悟で駆け込んだ学生ホールの掲示板前。祖母の誕生日だったと記憶している。メンバー募集を呼びかける用紙が貼られているのを確かめていたら、右側にゾロゾロと今後いやというほどまじりあう映画研究会メンバーらが歩いてきて、まえに面長で肌の白い男と、ロングカートを床にひきずった彼女がいた。彼女は、ひどく年老いて見えた。畑と仲良さげに話していた。
 黒い髪を撫で、かぐわしい頭皮の匂いをかぐ。エレクトした一物に、手を誘導させて、そっとつかませる。脈動が掌に伝わる欲望で、思いっきり押し倒してしまう。パジャマの裾に指を入れ、やわな肋骨を通り静かに這いあがった。
 おもちゃにしないで、彼女がせりあがる侵攻を食い止めるように小声を発した。まぶしいので両眼はつむったまんま。顔を横にそらしていたが、唇を接したいので、真正面を向いてみた。光がまぶたを透かして、眼球に赤を映じさせる。気遣いがたりず、破局ばかり。あなたは死んでいるんだし、私は存在しない。家には誰もいない。そんなざれ言が過ぎる。視界を互いに閉ざしたまま、唇を軽く重ねあわした。二人のファースト・キスだった。


引用

ブロッタス陸まもか ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク Ⅰ・Ⅱ』(河出書房新社) P315

別嬪熟桜 上記同 P275

根源的衝動 酒井健シュルレアリスム 終わりなき革命』(中公新書)P25

惰性的な労働 上記同 P24

消極的の修養 夏目漱石我輩は猫である』(角川文庫)P330