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 羽毛が襟から突き出しているバイオレットのダウンをはおり、鼻水をすすりながらの毒毒しい行為のただなかで、視界から抹殺されている群衆の視線を、背中で軽く受け流し格好よくいなすのは、まだ到底ライトには無理なのだ。

 トップバッターの重責なんて果たせるわけがなくて、それに期待されての順番じゃなくて、エキシビションというか、場をあっためるための前座のような立場だ。客足もまだ出ないお昼を食べ終わっただろう間近の頃合で、あやしげなものはさっさとおしまいにして、ラディッシュやらオードブルからメインディッシュ、デザートへのフルコース料理を踏襲するかのような、そんなタイムテーブルを森副部長らしい豪腕でトップダウンの決定がなされたんだろう。

 ライトは、奥田と赤坂のくぐもった声の響きを、耳垢まみれの鼓膜に感知しながら、ガレージで何本もの蝋燭に照らし出された己自身の奇怪なペインティングをほどこされた顔面を、いつもの濡れた哀しい目つきで睥睨した。

 カレンは、笑った。コートを脱ぎ、着慣れた真紅のプリーツスカートに白のブラウスと黒のショールという色音痴の出で立ちの女は、受付から拝借したトキントキンのHBの鉛筆で、鼻先を押さえ、湧き上がる爆笑を辛抱している。

 自然現象がやむのをしばし待って、彼女は颯爽と風を切り、教壇前の長椅子に身体を柔らかく滑り込ませた。机の上に感想用紙の藁半紙を一枚載せ、持っていた鉛筆を紙の真ん中で縦に置いた。ちょうど、懐中電灯を点け、ラジカセの停止ボタンを慎重に押す、彼の横顔がうかがえる。

 教室の後方では、一人の女性が腕を腹の前で組み、なにせ狭い場所だ、ペンキが投光の照り返しにより、暗所でありながら不気味に光沢を持ち合わせている壁に寄りかかって、事態の推移を見守っている。最前列に並んで座る男女を値踏みするように見つめると、顎の下をかくように思えた。

 視線を落として、砂嵐で縫い合わせたような映像の断片に、誰もが、そうどんな陽気な性分の男女だって、変態趣味の好事家だって、仏とみなに呼ばれる初老の善人だって、気分をいちじるしく害し、悪態を吐くだろう。

 長回しの苦痛を、微微たる救済だがそこそこ解放される、軽快なロックが、断続的についさっきまでラジカセから流されていたが、入れ換わるように今度はプロジェクターにつながれたスピーカーより鳴り響き出した。画面はフィックスから手持ちになったようで、ぶれてはいるが、味気ない初めの展開よりかは疾走感がある。さきのテープの音と比べてみると、たいした爆音でもある。停滞しきった映画がついに異様なテンションのオーディオビジュアルとなり、突き進んでいく。

 隠し撮りみたいものやら、巻き戻しみたいのやら、激しいロックに身をゆだねながら、変幻自在の映像ショーにレイプされそうだ。ふざけきったスタッフロールが流れ、前衛的な音楽とともに、映画が終わり、ブルーバックになり、プロジェクターによる上映係の森副部長がいらだたしげに席を立った。

 どうせ、「ヘルター・スケルター」「レヴォリューション9」と、意識下でつぶやいて、彼のマイフェバリットソングを臆面もなく駆使している屈託のなさに飽きれるかなんかして、電気係の三井によって、明るくなった教室を大股で潜りぬけ、喫煙するためにか廊下に出るんだろう森副部長を見送った。今日限り、ライトのことは完全に無視をしよう、とその背中は告げているようだった。進行役の鳥田が発す、次の亀嶋の上映作品までの休憩時間を伝える明朗な声は、教室の外にも響いていただろう。

 太陽と海が溶け込むような壮大な終末観を抱き、これが朝日ならいいのになと、うそぶいてみても、なんの事態の好転にはつながらないように思えて仕方ない心境。が、目のまえに、ドンキーコングみたいな姿勢で彼女がしゃがみ、『ダブリン市民』のライト版だと、絶賛された。

 カレンは机に載せられた、白紙の感想用紙をまえに瞑想している。笑ったとはストレート過ぎて書けないし、まともなことがまったくなんにもひらめかない。しょうがなくきのうねころがりながら読んだ文を引用書籍の明記をせずに、あやふやな記憶を頼りにつらつらと書いた。“芸術は受け取るほうが芸術家になれる、娯楽は労働者に徹せられる”

 壁に寄りかかって事態を静観していた女性が、いつのまにやら教室の前列にある席に座っていた。視界には背中を屈めて、筆記行為をしている女とラジカセを挟んで談笑している二人がいる。そして、次の上映係の亀嶋がさらに加わる。一般のお客さんは後席に集中していた。

 とりとめのないそんな雑駁した思考回路を巡らせながら、軽い吐息をつき、憔悴しきっている自分自身と居並ぶ、サークルの猛者たちを天秤にかけ、瞳は、色盲患者が初めて病状を自覚したときの驚愕とあきらめのように彼の姿を湛えた。

 孤独な途行き。絶海の孤島。しかし、そんなもんではへこたれない。彼女は強い意志を、才色兼備ではないが、けっして負けない鋼の心を持つものなのだ。だが、彼女のことは実はあまり知らない。名前も判らないので匿名のままあてずっぽうで記述している。また薄暗くなったA館上層角の教室のうしろに位置する壁の隅より、左手で押さえるペンライトの明かりをキャンパスノートで外界から囲い込むかのようにして、ボールペンを走らせ、ただいまこの文章をお山座りで作成しているのだ。

 無論、ひらがな、カタカナまじりの乱筆乱文の漢字変換もさることながら、誤字脱字のオンパレードも後日、修正せねばならんだろう。上映会が終わったあとに発覚する事態も加筆したいし。もちろん、大きな組みかえも必要だろう。ときどき立って状況も確認した。

 ノートを閉じ、ペンライトを口にくわえ、筆記具のペン先の反対側にかぶせておいたキャップを元通りしめた。再び暗闇が支配していく室内で、立てひざをつき、腰を曲げ、ボールペンを指のあいだに差したまま、両手を汚い頑丈な床につけ、四つん這いの姿勢で暗幕を垂らした唯一の出入口を目指して、孤独な行軍を開始した。

 隣には誰かがいる。長机に両ひじを立て、指を厚ぼったい口唇の周りに円を形作るように曲げている。目はうつろで、いちじるしく集中力を欠いており、睡魔がいやおうなく襲っていた。次の瞬間、両腕がまえの形から崩され、通路へと投げ出された片腕に、ペロペロと従順になめまわす細長い舌が、手指に付着していたから揚げの油を嘗食する。

 ペンライトとボールペンは、左右の手におさまっていた。開いた口からは、とめどもなく唾液がしたたり、床に水たまりをこしらえている。隣で静かに映画を鑑賞していた、シルクハットの紳士が立ち上がった。カラーを振りほどき、充血したまなこを獣に向ける。さらなる時が流れ、いまはすっかり完全なる夜になったかのような錯覚を彼は抱いた。獣の目が光っている。

 おかえり、おかえり、双子の男の子が彼に対面してこういっている。紳士は、すっかりくつろいだ様子で、帽子を取ると、タキシードも脱ぎ、スラックスも放り出し、上はYシャツだけの姿になり、カフスボタンを外した。首をぐるりとひと回しして、頚骨を鳴らす。お次は座って、まずは紐靴を解放し、それからシルクの黒ソックスの全容を明らかにする。はて、スリッパがない。それどころか部屋着の洋服かけも見当たらない。ここは真っ暗だから。

 駅が映写されている。労働は自然ではない。上映は終わっていた。マルクス教授の個人レッスンが終わったのだ、正確にいうのならば。教授は助手に目配せをしたあと、生徒のガルシア君を色眼鏡で見た。彼の恋人は日本人だ。たしか、コイタといった。仲むつまじく、大学で目撃したものはまだいないらしいが、ところかまわず乳繰りあっているというもっぱらの噂だ。夜の中学校の乾いたプールなどで。仕事のストレス発散なんだろうが、まったくお盛んなことだ。

 しかしマルクス教授は平面の存在だ。上映が終わり、ガルシアとコイタに嫉妬してみても、直接的にはなんの変化を現実に及ぼすことはできないのだろうか。いや、違う。できる。巨大な影響を与えることは不可能ではない。そう教授は固く信じている。

 教授には妻子がある。それがどうしたことか。本件にはなんの関係もない。彼は自由なのだ。どんな場面においても。彼はなんの圧力にも構造的欠陥による個人への軋轢にも無関係なのだ。だって妻子はまだ設定まえの段階でなんのデザインもほどこされていないのだから。

 ここにいたるまでのいきさつは、頭部に付着した虫が心得ていた。黒髪のあわいをかき分けかき分け、虫は頭皮中を移動する。だから、彼女にすべてを打ちあけて、訊いてみればいい。答えはおのずと解きあかされるだろう。だが彼女は黙ったままだ。

 電気係の三井により、教室が光に包まれる。しつらえられた暖房器具が場内の発熱を促進している。まだ春先なゆえ、底冷えする陽気だった。男女数名がヒラヒラと感想用紙とパンフレットをそれぞれ鉛筆と重ねて持ち、入場してくる場面を、ライトとカレンは腰を回して観察した。進行の鳥田の声が緊張で震えながら、教室に響く。

 いよいよ、森副部長の作品の上映とあいなった。二人は、外にもう出払っていた。例外をのぞき、監督本人がプロジェクターを管理するため、廊下にて、どうやらパンと牛乳でブランチをすませていた森副部長が、急いで8ミリビデオカメラにHi‐8のテープをセットしている。

 ささくれだった手指を、母親が銀行の景品でもらってきた、ダサダサのオックスフォードと読める字が躍るショルダーバッグに無造作に突っ込み、レジ袋に入った近所のコンビニで今朝購入した、食べ残しのおにぎりを取り出して即行でかぶりつく。

三角形の包装がうまく開けずに、のりがビリビリに破れていた。床に細かくちぎれた残骸がハラハラと落ちてゆく。第一の手順からして誤っているのだ。始めの縦にまっすぐ切れ込みを入れ開封するのは、上にきたところで止めて第二、第三の順番でするのではなくて、ビニールがふたつに割れる最後まで完遂せねばならんのだ。

 これは、CMでおなじみのラップの切りかたに影響されすぎて、ほかのメーカーでCM通りに被せたままクルッと半回転させてラッピングをしようとしてもうまくいかなくて、大概のものはあらかじめ皿などに張るまえにラップだけで切り離さないといけない、ということになかなか気づかないのと、同じような不器用な生きかただ。

 もぎりをしたり、ワンドリンク制のため、紙コップに午後の紅茶かコーラの2リットル入りペットボトルを注いだり、感想用紙や鉛筆を渡したり回収したりと、入場客と退場客の応対に迫られている受付係より離れ、消火器が設置されているドンツキで、伏し目がちに全景を支配する人間を見ている。ふと気づいたときには、カレンの姿が消えていた。暗幕が揺れる教室に一足先に入ったんだろう。そう、ライトは思った。誘導係の仁が笑っている。

 薄汚いテニスシューズに視線を落とし、明太子が具のおにぎりで頬をパンパンに膨れ上がらせて、なんとか早く飲み下そうと躍起になる。オックスフォードのバッグから、今度はペットボトルのミニサイズをつまんで出した。もう熱熱というわけじゃないが、まだほの温かい。口唇にのりがついていないか注意して、口の内外を清める感じで半分ほどあわてて飲んだ。

 人差指にかけていたレジ袋におにぎりの包装ビニールが入っていたが、お茶の容器も勢いあまって放り込んでしまった。ま、いいか。そのままバッグのなかに忍ばせ、肩に下げずにおっとり刀でスタスタと受付を通り過ぎて、教室に舞い戻る。

 きょろきょろ辺りを見回しても、カレンはいなかった。トイレだろう。まえいた席には鳥田が座っていた。仕方なく、空いている彼の真後ろの長椅子に身体を入れた。荷物を机の上に置く。持ち手についているプラスチック製の伸縮させたり、着脱させたりするための留め具が、板に当り微かな小音を立たせた。

 私はライトのあとにくっつき、逐一ノートに彼の動静を書き込んでいる。つまり、いまはライトの横の席から、彼と鳥田を観察しているのだ。鳥田が腰を回転させて、振り向いた。感想、書いてないの。ライトは自分がもといた席に感想用紙と鉛筆とを置いてきたことをすっかり忘れていた。この執筆前にライトに長いインタビューを敢行している。それが今回、彼の心情を図るうえで重要な材料になっているわけだ。二人は仲がいい。ライトが、鳥田の下宿に何泊もするほどだ。鳥田が紙と鉛筆をライトに渡した。

 花藤が教壇のまえに立つ。実況小説とも呼んでもいいだろう作業は続く。しかし、ここで私がきのうライトの家に泊まったことを引き続き文書で報告したいと思う。教室はまたもや暗闇と投光とスクリーンの明かりで彩られ、時間を刻んでいる。ペンライトをポケットから出して、文字を現在も書き連ねている。

 

 

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 親指と人差指の腹を荒荒しく扱い、鼻糞を手淫行為にふける猿のごとく必要にむしる嗜癖ののち、カルピスウォーターを飲む。腹がいてえのにまだ残っていやがる缶をホルダーに置いた。サークル棟裏手の路肩で愛車のサニーのエンジンをふかし暖房をつけ、のろまな兄弟がちんたらやってくるのを待っている。

“小さな悲しみ製造機と大きな悲しみ製造機”

 ラジオがかかっている。金曜の夜はいつもこれ、と決めているわけじゃなくて、ただ偶発的に身をゆだねているだけだ。最近に三井と観た映画を想起している。evianは、naiveを逆さに読んで商品名にしたと、劇中たしかウィノナ・ライダーがほざいていた。個人的にはジュリエット・ルイスのほうが好みだ。そっちは行きそびれちまった、クソ!

 抜け途から身を屈めて道路に出てきた黄色い猫は、ふたつの影が大きな物体のなかに消えていき、勢いよく走り去るさまを見届けた。猫はニャーニャー鳴いて、どこか暗闇のなかにその姿をくらました。日付が変わろうとしている。黒野はあすまで缶詰めの編集だ。俺たちはただハイエナのように部室の周りをうろついているわけにはいかない。俺たちにもすることがあった。俺たちは南東に進路をとった。俺たちは三人で、ただただ歌うように喋り、そして叫んだ。俺たちは支離滅裂だ。なにもかもが。俺たちは行き場を失っている子羊だ。俺たちはただただ生産される漿液と粘液で、行く手をさえぎるものを蹴散らしていく、細胞の塊に過ぎない。

 インターチェンジに入り、助手席のライトが、うしろで画用紙に鉛筆を走らせ始めた兄と、マルクス教授の話をする。自然、次の話題は教授と、兄が似顔絵を書いている彼女の恋について移ろっていった。

 黒に染まった車窓の風景が流れ、スケッチブックを立ててペンライトの投光が前方に広がるのを避けつつ、手元だけを明るくして黙黙と絵を描く兄は神経を研ぎ澄まし、次第に空談には乗らなくなった。兄はよく絵を書いてきたようだ。コミックマーケットに漫画や鉛筆画を出品したこともあるそうだ。私も現物をいくつか見させてもらった。シュールというか、サイバーパンクというか、アール・ブリュットというか。とにかく、イカレタ絵だ。

 赤いテールランプが、目ににじんで浮遊を繰り返している。ラジオはさっきから止め、いまはシトロン・プレッセのテープを流しだした。俺がベースを担当している映研バンドだ。俺のことはどうでもいい。問題はこの愛とは無縁の兄弟だ。

 この小説はライトのたっての希望で書かれているものだ。自分を取材対象にしてかまわないから、僕の物語を書いてくれ。自己愛の過剰な存在としてのライトは、そう俺にいった。現在の美しい自分を残しておきたかったの、と芸能人がヘアヌード写真集を発表するときなんかに常套句として使う思考と同じものなのかは判らないが、青春の美しさを自分の都合のいいように脚色演出して、大大的に世間にみせつけるわけではなく、ただ私家版として小部数刷り、気の合う友人たちに配布したい、絆を確かめ合い、一緒にいたことの証明として、卒業アルバムのようにみなの手元にいつまでも残しておきたい、そういった主旨のことも確かこんこんと聞かされた。

 ひとつの注意点は除いて、あとは自由に書いていいとも指示された。その注意点とはご多分に洩れず、女性関係だ。ここからはライトに従順に提出するものとは違い、俺のなんでもありのバージョンなんだ。だからすべてのことを克明に記したい。前半で叙述した女性三名がライトにこともあろうかぬかずいたような態度であるのは、もちろんフィクションである。

 彼は三名の女人の平常心を腰砕けにさせ、おのれの肉棒に心底夢中にさせているという妄想を俺に語った。その彼女たちが誰かは煙に巻かれた。これは俺にも好都合だった。三名の女性はすべて架空の存在にして書いている。そもそもうちの映研には女性部員が欠乏しているのだ。本来のライトは、この欠乏している女性部員の一人に対し、執念深く贈り物や手紙を送り、あろうことか彼女が一人暮らししているマンション付近での徘徊、実家の探索などを繰り返している。そんなみんなには周知の事実を彼は絶対に書くなとなんども念を押して懇願していた。

 結局、真実の歴史を曲解し、己の偽史を作り上げ、現実ではなしえない欲望を、せめて小説のなかだけで達成し、繰り返しになるが、身近なものたちだけでもいいから、あたかもそれが文学的叡智のように後世に伝承されることを、到底無理なことは承知の上なのか、どこまで本気でどこまでおちゃらけなのか判断がつきづらいところなのだが、大きくことほぎたいようなのだ。

 まったく、やっかいな人間だ。あきれるしかない。それでもなんで、このエリートの俺がそんな駄作になること確実な計画にこれといった不平を垂れずに参加しているかといえば、狙いはマルクス教授なのだ。彼の尊大なサークルを牛耳っている力をなきものにしたいのだ。彼のせいで何人かの革命戦士の命が絶たれてきた。俺もこの実況執筆当時は、まだ生きていた。しかし上映会直後、俺はサークル内消滅を余儀なくされた。次は、真平か。おめでたいことに気づいていない大葉兄弟も時間の問題だろう。なにもかも、マルクスのせいなのだ。彼の罪科を告発する役目が、俺にもそして、この小説にも脈脈と息づいているのである。

 マルクス暗殺計画は、去年の秋祭のころから浮上しては消え、消えては浮上して、を反復していた。前述した通り、マルクスは二次元の存在だ。そんな彼をどう始末するのか。手当たり次第に、彼の著作を焚書の憂き目に合わせても限界があるし、まずもって彼の思想の影響力を消さない限り、前途ある未来は開かれない。

 そこで我我も、マルクスがあたかも三次元にいるかのように、引きずり出すことにした。彼を生きている人間として誕生させる。生き始めた彼は、きっとタイムラグで多くの失態を起こすことになるだろう。また、暗にそう仕向ける仕事を我我がする。だが、我我の当初の暗殺計画で彼が実際に命を落とせば、狂信的な信者は残るだろうし、また彼の存在が美化される怖れがある。だから、自然死を待つ。期限はない。

 あとはどのようにしてマルクス教授をこの世に産み落とすのか。一度も存在がない、架空上の人物のはずの彼をいかに創り出すか。それには文学しかない。いままさに息をしているかのように彼を描写するのではなくて、彼がフィクションの存在であると読者を喚起させ、実物同然だと洗脳されているものを本当の世界と対峙させればいいのだ。そんな力量が果たして我我のなかにいるもので満たされるかどうかははなはだ疑わしいのだが、いつの日か、そんな未来がきてほしいと念じ、ライトの家に泊まった話に戻りたい。なにせ彼ら兄弟こそが、遠い未来、我我のマルクスに対する最後の希望になるであろうから。

 

 

       

 

 俺は車を料金所から発進させる。後部座席で作業に没頭し、一心不乱で筆を走らせていた兄が、終了の声を上げた。サイドブレーキに中学時代に使っていたのと同じ型の薄汚れたスケッチブックを置き、ペンライトの楕円形がひしゃげて広がる黄色い光に、眼鏡をかけた壮年の男性の肖像が浮かんだ。

 まぎれもなく、それがマルクス教授だった。俺は教授の顔を見たことは一度もない。そもそも教授には顔なんてないのだからあたりまえの話だ。しかし赤信号にてのぞく、その風貌は立錐の余地もないほど彼の現象と一致しているかの如くなのだ。

 さらに想像をたくましくすると、マルクス教授は、俺たちの偉大なる神なのではないかとも思えてきた。なにせこんなにも克明に彼のことが瞬時に理解できる。ライトはいまどう考えているかは不明なのだが、きっと思いは通じあっていると願いたいのだけれど、ともかく俺たちは誰よりも彼を知ってしまっているんだ。

 彼女の絵じゃない、ライトはそういった。これ誰だと思う? 俺は彼を試すために興奮を抑えて訊く。ライトはその質問には言葉をつぐみ、視線を下にしたまま、走行中の車内に響き渡る大声で、なんで彼女じゃないの! と類語反復した。

 ライトは、深甚なる衝撃を受けている。俺は強く彼の気持ちを推し量り、どうやら彼も、そしてこの不穏極まる肖像を描き上げてしまった兄も、同じ人物を心の内に召喚しているのだなと確信めいた結論を下した。

 俺は覚束ないハンドリングで、感情的になることを怖れながらも、ニヤニヤ笑ってしまう。俺たちの偉大なる神よ、恐怖の大王よ、どこまでも続くこの支配下で、なんとしても、必ずや成しとげてみせる。泥人形の俺たちがそんなことできるはずないだろうと、油断するだけすればいいさ。時間はかかるだろうが、俺たちはどこまでいっても自由になる。

 首を後ろに曲げていたライトが涙を出しているかどうかは判断できかねるけど、正面を向き泣きじゃくる駄駄っ子を彷彿させるように洟をすすっている。ルームミラーでリアシートを見れば、兄が遺影を持っているみたいに、スケッチブックの絵を抱えている。ペンライトは切られていた。沈黙にグズングスンと断続的にライトから発せられる音がもの哀しく場のトーンを形成している。ぴったりなBGMだ。シトロン・プレッセの音楽も、いつのまにか終わっていた。

 空を飛びたい、唐突にそう思った。空さえ飛べられれば、向うところ敵なしだ。神のまします天空へいって、この肖像画を持ち、マルクスを探すまでだ。

 さきほどまで心地よかった静けさにもう耐えることができなくなって、いてもたってもいられずに、ラジオをつけると、臨時ニュースで山火事が広がっていることを報じていた。アナウンサーの低音の声音が、緊迫感をより高めている。

 燃やせ! 頭にそう声が届く。肖像画を燃やせ! 跡形もなく焼き尽くせ! 衣服をまさぐり、ライターを見つけようとする。ない! ない! ない! 俺はよだれを垂らした。計器の光で一筋のよだれの糸がまばゆく輝く。ライトの洟もおさまりそうにない。落ち着け、これはまぎれもなく紙だ! 顔面にしわが寄り、からだきしたヤカンのように熱が脳を容赦なく攻める。顔全体が幾重にも伸びるしわで覆われ、脳が飛び出して、内外が裏返しになったかの如くだ。

 手っ取り早く、肖像画を処分せねばならない。この世からなきものにすべく、営為努力せねば。忘れてはならない、奴に実体などない。俺たちまで奴のリアライズに手を貸してどうする。そこまで引っ張り出すのはいいが、呑まれてはならない。耽溺してはならんのだ。

 あくまで二次元に留めておかなければいけないと、再度、俺は確認している。肖像画は二次元の産物だが、あたかも生きているかのように、俺たちに迫ってくる。奴は現実にはいないのだ、と自分に何度もいい聞かせる。

 絵はまずい。危険のなか偶然に得られた教訓は不幸中の幸いだ。だがいまはそんな悠長なことはいってられない。早いところ燃やさねば。ガタガタと身体が震えてくる。ヤカンの底が黒く焦げ、円い穴が開き、しまいには木っ端微塵に吹き飛びそうだ。脳が破裂する。

 言葉を補給せねば。ショーゾーガヲモヤス、ヒトニギリノハイモ、カゼニノッテ、ウンサンムショーサセルホド、ヤカナケレバナラナイ。

 応答不能、応答不能、只今鋭意選別中。対向車線のブルーバードの運転手が、早くしろといっている。奥歯をガタガタ鳴らせ、小刻みに顎を震動させる。目も血走ってきた。死期が近い。ヘリコプターから追われている。奴の仲間が手配したのだ。肖像画が焼かれ闇に葬られるまえに奪取するつもりなのだ。特殊部隊がロープをつたって、車上に舞い降り、屋根にへばりついて、ハンマーで窓を割り、兄の手から奪い去る計画か。

 車外に捨てても、ビリビリに破いてもダメだ。やっぱり燃やさないといけないんだよ! ラジオでも大大的に報じている。みな俺を応援している。急遽、スタジオに集められた芸能関係者たちが、特別編成で生番組を流しているのだ。みなしごのタレントが、俺を遠隔操作で動かしている。コントローラーのめりこんだBボタンをさらに押して、ヘリコプターの追跡を逃れるため、スピードを上げさせ、ついで十字ボタンで路地へと運ぶ。空撮しているテレビ局のヘリも追尾してくる。

 だが、ここにきてもうすぐガス欠だ。股間に唾液が幾筋も垂れて染みになっている。まだ垂れ続けている。ライトと兄は、沈黙をもう守っておらず、しかし相も変わらず洟をすすってはいるが、小声でなにか言葉を交わしている。よく聞きとれない。ヘリコプターの爆音とラジオから流れる、バカ騒ぎのせいで、なにを語りあっているか判らないのだ。本人たちも果たして理解して会話を進めているのかどうかも疑わしいほどなのだが、とにかく確かに、か細い、ひそひそ話が、騒音のなか、わずかにボディランゲージを含め、感じられる。

 ラジオからドッと歓声が湧いた。意味は判らない。なにが起きているか、つかみかねる。続いて怒声やバカ笑いが加わる。かなりメディアも混乱しているようだ。俺はガソリンスタンドを探すため、大通りに出ようとしている。車を捨てることも頭をよぎったが、とりやめた。スタンドで給油している最中に、ヘリから攻撃を受けるかもしれない。スタンドよりさきに、コンビニでライターを買うほうが得策に思えてきた。どちらにしろ、とにかく目抜き通りに出なくてはいけないというわけだ。

 しかし俺は受信者だ。発信側の指示がなければ、どうすることもできない。とても歯がゆい。みなしごのタレントは、サッカー番組のアシスタントの女性と大いに盛り上がっており、こちらの判断をなにも汲み取ってはくれていない。もどかしいことだが、俺にはなにもできず、ただ狭く入り組んだ一方通行の路地をくねくね蛇行運転するだけ。しまいにガス欠という万事休する未来が待っている。

 いつタレントの管理下に治まってしまったのか。自問自答してみてもなんの光明も差してはこない。ヘリのバタバタする旋回音はいまだに耳をつんざく。ピーピー鳴る給油アラームもうるさいだけだ。

 とにかく、俺はもういい加減、万年受信者をそうそうに辞めて、一刻も早く送信者側に着くことを強く念じる。と、回線が切れた。ラジオが止まり、ライトが洟をかむ音が聞こえた。

 兄が見るに見かねて、かいがいしくライトへ常備しているティッシュを分け与えたらしい。あのヘリは米軍かもしれない。俺はパワーウィンドウを開け、上空をうかがう。ヘリは遠のいている。助かった。うまく撒くことができたというより、テレビクルーの存在を知って離れていったに違いない。ヘリは一機しか確認しなかったが間違いなかろう。

 ではガソリンスタンドに寄って、コンビニでアレを燃やそう。調子が上向いてきた。善は急げだ。まっくらな民家に取り囲まれている路地より、ハンドルをキュッキュッと遊ばせて大通りに出る。あぶなかったね、とライトが前を向いた姿勢のまま、妙に老け込んだような喀痰がからんだ、いがらっぽい声でいった。洟が垂れる寸前だった。それに反応するものはいない。ルームミラーでリアシートを見やると、兄は古ぼけたスケッチブックを横にのけていた。そうか、焼かなくても、消しゴムをかければいいんだ。ちょっと、お兄さん、絵を消すの持ってる? 俺は渇き切った口臭もあるだろう口でいった。

 ひとっこひとりいない暗闇に閉ざされた集落の次に、ヘッドライトによって照らされているのは、横断歩道を渡るひとたちだ。ライトは漠然と歩行者を見ている。兄はゴソゴソと手提げ袋をあさりだし、ありますよ、といってくれた。これで安心だ。信号が青に変わり、アクセルを踏みしめて、腹に力を思いっきり入れて、消せ! 早く消すんだ! と口角泡飛ばして命令した。

 初め、兄は困惑を隠しきれず、俺の真意を汲み取れないでいた。頬を緊張させ、二の句を継げずにいる。マルクスを消せ、といっているんだ、早くしろ! と怒鳴った。マルクス? あのカール・マルクスのこと? 違う! じゃあ、グルーチョ・マルクスのことだ、違うったら違うんだ、マルクスだよ、マルクス教授のこと! 呆けたような顔と目が合った。前方不注意である。マルクス教授って、あのN大のですか? そうあの情報文化学部の教授だよ! ライトが話に割り込んできて、事情が段段に解き明かされてきたようで、兄はゴクリと唾を飲み、で、そのマルクス教授がどうしたんです? とやっぱりまだ全体の輪郭がぼやけたままであることが露呈してしまったのだが、俺はめげずに、さっき書いた絵を消せ! といっているのだと、あたかも決め台詞を吐く意気で激しくいい渡した。

 そんな押し問答をしている間に、ガソリンスタンドを発見した。とりあえず、あそこで気を休めたのち、消去を自ら実行しよう。年中無休24時間営業のそのスタンドの給油スペースに車を横づけると、誘導をしてくれた店員が、にこやかに顔を近づけ、注文を受け、もうひとりの男性が、フロントガラスや窓を手早くふき始める。

 俺はシートベルトを外し、身体をよじって、腕を最大に伸ばし兄の腰元に立てかけてあるスケッチブックをぶん獲り、消しゴムどこ! とキレ気味に相手をにらんですごんでいって、か弱い乙女から大切な小物を奪うような勢いで、手の内よりそれをかっさらった。

 レギュラー満タンの支払いを済ませ、車をサービスルームの駐車場所に移し、よだれで濡れた股間に置かれたスケッチブックと消しゴムを手に、やおらどっこいしょとばかりに車外へ出る。

 おまえたちも降りろ! ジュースおごっちゃる。兄弟は不審な表情を浮かべて、のそのそとサービスルームへと向かい、俺はキーを閉め彼らに続いた。うしゃしゃしゃしゃ、これでことなきを得る。そうしたなか、スタンドに充満する石油の臭いと有線放送の軽快なポップスに頭をクラクラさせ、いや、待てよ、もう奴らに奪われる不安は消えたのだから、稀少な資料として保存しとくか、といった考えがもたげてきた。

 簡素な椅子と机、並びに二台の自動販売機が設置された小部屋で、もう腰かけて駄弁を弄している兄弟。机に持っているものをすべて投げ出し、上着のポケットから財布を取った。

 俺は、小銭をみつくろって、紙コップ式の自販機の前に立ち、あんたら、なにがいいの? と二人に訊ねた。兄弟はそろそろと椅子から離れると、ライトはレモネード、兄はスポーツドリンクを所望した。俺は腹がシクシクするのでやめておこう。

 三人とも席に着くと、スタンドの店員が目深にかぶった帽子の奥に、鋭い眼光を宿しているのが見てとれた。ははあーん、あいつ奴らとグルだな。おい、と俺は二人に対し注意をうながし、きつく相手をにらみすえる。短い四肢をバタバタさせて、立ち上がると、もう車に乗れ乗れ、とだけ吐き捨てて、スケッチブックと消しゴムをガッとつかむと、猛然と停車しているマイカーへと向かった。

 肖像画を守らねば。俺たちの財産を。いつもはのろまな兄弟も今度ばかりは俺の指示に敏速に対応してくれていた。火の出るようなスピードでエンジンをかけ、ガソリンスタンドをあとにした。

 赤信号までかっ飛ばして、一息つくと、兄の私物をすべてリアシートにうっちゃって、ちゃんと持ってろ! と吠える。そうしたら兄は、消すんですか? と優等生発言。タコ! 予定変更だよ! 大事に抱えてろ! と畳みかけるように連射してやった。

 ぐうの音も出ない兄は、すっかりしょげかえり、この理不尽極まる俺の蛮行に文句もいえず押し黙るしかなかった。

 あやうく手にしている紙コップを傾げ、飲み物がこぼれおちそうになったが、なんとかスケッチブックが濡れるような惨事とはいかなかった。

 俺は少少、乱暴すぎたと反省する。筆圧が過度にかかって、裏写りしている上に重ね書きしている。その酷使に我慢していられず紙が破れそうだ。しかし相構わず、横書きを鉛筆で続行する。芯がちびてきている。運よく鉛筆削りは持参していた。削り滓が散らばらない箱型のだ。

 隣では、よだれの水たまりを作っている馬鹿がひとしきり寝入っている。さすがに鼾まではかかず小さな寝息を立てているまでだ。きのうは俺の家の応接間で眠っていたが、あまり熟睡できなかったのか。馬鹿が握ったままのペンライトの淡いいびつな円から角張って次第に消えてゆく光線のもと、鉛筆を走らせる。

 もうすぐシフトチェンジだ。油まみれの手袋を外し、ズボンのヒップポケットにしまう。目を輝かす。俺は一冊の青いノートが落ちているのを発見した。裏向きにしてあった。おずおずと拾い上げてみる。めくってみるとびっしりと鳥の跡が記されていた。ボールペンや鉛筆で書かれている箇所があって、よく調べてみると、途中で筆跡が変わっている。何気なくノートを閉じ、改めて表紙をまじまじと観察すると、“映研ノート あなたの書く物語、書いたら次のひとに渡しましょう”とある。

 ガルシア君、急に名前で強く呼ばれ我に返った。先輩から、もう上がっていいよ、といわれた。勤労のため痛む節節をいたわりながら、ロッカールームへと入った。ここまで読んでみて、嘆息を吐く。もう時計の針は天辺を回った。手元を照らせていたペンライトを消した。隣ではカレンが安らかに寝息を立てている。朝になったら、このノートのことを話そう。暗闇のなか、薄ぼんやりと仰向けになって、天井の照明を見た。徐徐に像が合わさっていく。温かい放屁を垂れた。俺はこのあと、カレンに付き添われ映研に入部した。

 

 

       

 

 電気が点き、憔悴し切った私は、ぼんやりと教室を見回した。腰を無理にでも動かして、カレンを捜してみたが、眼球にはこちらに無関心な人人のガラス球みたいな目しか感じられない。そのなかに森副部長も含まれていた。彼はそそくさと撤収作業に従事していたが、なにげなく視線を上げた拍子に私と目が合ったのだ。彼は薄気味悪い笑いを口元に湛えてまた下を向いた。

 姿勢を正し、真正面を向いて、鳥田の背中を見た。司会進行は花藤に任せ、せっせと感想用紙に取り組んでいるようだ。背骨がゆるやかに曲がり、不自然に後ろ髪がはねていた。

 なんだか、居ても立っても居られなくなった。カレンの姿がない、というのもあるが、第一義に、このノートの存在が気にかかる。びっしりと文字がひしめきあって異様なほどの迫力というか、圧倒的な狂気が感じられる。

 これはまずいな、燃やそう。そう決意すると腹の底から元気が湧いてきた。いいぞ、いいぞ、あの中庭で燃やすか。算段しながら席を立ち、部室にいけばライターかマッチがあるだろう、と思案し、バッグを肩にかけ、教室を飛び出す。

 プロジェクターには、次の番の兄がいて、準備を進めていた。その手元には小振りのノートが開かれており、以上のような文章が綴られている。兄は鼻から空気を深く吸い込み、静かに息を吐き出した。

 暗幕を潜り、少し傾きかけた陽光差す廊下にカレンを捜すもやはり姿はない。仕方なく受付にいる仁に訊ねてみても快い返答は得られなかった。鼻息を荒くして、歩幅大きく突き当たりを階段まで進み、少し女子トイレをうかがったのち、男子トイレの鏡で身だしなみを整え、全力で一階へ駆け降りる。

 あとは野となれ山となればかりに、ノートを抱え込んだまま、部室へ急いだ。ゴミ捨て場を横切り、玉砂利の途を突っ切って二階建てのサークル棟にある映研の部室の固く閉ざされた扉の前まできた。鍵は各自一つずつ所有している。ノートを脇に挟み、ドイツ製の財布の小銭入れに、ぎゅうぎゅうの硬貨と一緒になって、押しやられている部室の鍵を指先でつまみ上げ、急いで鍵穴を回転させる。心ここにあらずの心境で火の元を探す。

 土足で手に届く範囲にはないので、面倒臭いが靴を脱ぎ、畳に足をつけ、手当たり次第に中腰の姿勢で、部室中を動き回った。知らないうちにラジカセが置かれていた。

 と、ここまで編集を終えた黒野が、休憩のため、がぶ飲みミルクコーヒーを飲み干す丁度そのときに、扉が開かれた。男はひどく狼狽した表情で、左手にノートを持ち、黒野に語りかけた。もう時間ですよ、限界です。いま兄の上映が始まりました。次ですよ、黒野さんの出番は。その様子じゃあ、まだ完成していないようですね、どこまでいきました。もう最後のほうですか。

 黒野は胡乱なこの男を一瞥すると、なにいってるの、上映は明日でしょ。僕は今日徹夜で仕上げるから、いい加減な冗談をいって邪魔してないで、とっととコーヒー買ってきやがれ! とどなった。途中で割り込みたかったが、呆然と聞き入ってしまって、まったくの無駄だったと両者ともに思っている。

 ゲンゴの車で帰るんじゃなかったの? 渋渋と口を開くのも阿呆臭いと感じながら、黒野は、重たい疲労感たっぷりの停滞ムードのなか、二の句を継いでみた。

 双子はどこです? またもや頓珍漢な言葉を最早、互いに不審人物と化した男同士の関係性に漂わせて、メタリックな扉を背にして立っているものが喋る。ここで私がすぐ飛んでいって仲裁役を買って出たい。二人のすれ違いを正して、本来の睦まじい間柄に取りなすには私が番めにならないといけない。狭苦しく空気の澱んだ埃っぽい部屋が、さらに二人の切断を助長しているかのようだ。黒野のほうは、もう相手にすることをやめ、男に背を向け、編集作業を再開させている。無視されたほうは、おもしろくなく小声でボソボソ前にいった台詞を繰り返して、靴を脱ぎカマチに上がる。

 しかし、いまの私には反目する二人に対し、やれることはなにもない。ただここで見守っているしかない。カラフルな毛布やコタツ布団を眺めながら静かに男は立ち尽くしていた。いったい自分が誰で、どこからきたのか、そして、いまなにしに息せき切って、部室にやってきたのか、それまでも失念している。俺は、なぜ双子を探そうとしているんだ? これさえも発しえない。

 かわいそうに。彼にとって双子は、今後の人生にとって必要不可欠の要素を十二分に備えている、大切なものであるのに、なんの記憶も捨ててしまって、いまでは味方は誰一人として近くにいない状況なのだ。不憫でならない。率直に読者諸君に申せば、彼は双子の親なのである。そのことに彼が気づくことは、未来永劫、もう一度もない、失われた感情なのである。

 首が締まるかのような虚無感を、逆方向の憤激でもってやり過ごそうと俺は、黒野の背中を見ることもなく踵を返し、靴を履いて、部室から勢いよく飛び出した。ライターもマッチもなかった。砂利道を踏み鳴らして靴裏に響く歩く刺激によって徐徐に冷静さを取り戻した俺は、自分がノートを燃やすには、どうすれば最も手っ取り早いか考えた。ならグラウンド近くに焼却炉があったはずだ、とまず初めにこの選択肢に頭が及ばなかった己に腹を立てつつ、より大股になって北東に進路を取った。

 後夜祭や、部員たちと季節外れの花火をしたり、サークル対抗戦の野球の練習をしたりした図書館脇のグラウンドを尻目に直進し、東に折れ、目的地の焼却炉から煙が立ち昇っているのを確認し、自然とピッチが速まった。さきほどより陽はどんどん傾き、影が伸びている。焼却炉のまえにひょろ長いひとが立っており、火かき棒を持って、炉内を、首を曲げて覗き込んでいた。ジャージー姿で、俺の目には学生のように映った。

 そばまで寄ると、すっとんきょうな声で、すいません、これ焼いてもらえますか、とノートを差し出し訴えた。男は聞こえないはずはないのに、俺を無視するかの如く、火かき棒を操って炉のなかのゴミをかき混ぜようとする。俺は彼の肩口に顔を近づけ、燃え盛る内部を盗み見るようにうかがう。手前に置かれていたスケッチブックを奥のより炎が激しい箇所までモップがけでもするみたいに押し込もうとしているようだ。あれはもしや例の肖像画のスケッチブックじゃあないのか?

 そんなふうに見惚れていると強い打撃が頭部を襲った。なにがなんだか判らぬうちにへなへなと倒れていく最中に、火かき棒が引き出された流れに沿ってそれが振り上げられ、バットスウィングのように水平に力強く横振りされたことを確認する。頭部の激痛と精神が麻痺していく原因が夕陽に照らし出され、分厚い口唇がカサカサに乾いている自分そっくりの男によるものだという想念とともに、さよならマルクス教授なる捨て台詞も消えてゆくばかりだった。うしろの木陰にカレンがいたなんて知る由もない。そして、ガルシア君! と叫ぶなんて聞こえはしないのだ。さらに彼女が双子を宿しているとは、想像もしていない事実なのであった。

ガルシアは、ライトが倒れたショックで手離したノートをしゃがんで掴み、バッグからペットボトルが飛び出しているのを見た。ちょうど喉が渇いていたんだよ。ガルシアは誰にいうでもなくそう小声で口にして、いまから俺がライトになるんだから、失敬してもいいよな、とだんだん近寄ってくるカレンの靴音を聞きながら、ペットボトルに手を伸ばした。これで、三角関係は終わりだ。あとは俺に任せて、おまえはガソリンスタンドで働いていろ! 俺は目のまえまで近づいたカレンと逆光の黄昏のなか見つめ合い、お茶を飲み干した。

ノートの続きは、もう記されていない。

 

 以上が、一九九五年三月四日土曜日に、N大学で催された、「大ビデオ上映会」で流された黒野顕昭の代表作「3月4日公開作品」のだいたいの内容である。監督始め、小生、大葉禮人、大葉義一郎、恋田火漣、森副拓也、速木源吾、そしてガルシア・マルクスらといった主要人物とマルクス教授との闘いは、まだ決着していない。筆記係に任命された小生の、悠悠自適な平和で穏やかな時間も終わりを告げようとしており、危機はいますぐそこにもきている。どうか皆がみな無事であることを祈るばかりだ。では、これでひとまず筆を擱くとする。

院長先生殿                                

鳥田愛拝 

 

 

       5

 

 網の包帯で頭部の裂傷をいたわるガーゼを守り、虚ろ顔のライトは、校内の中庭に繁茂する雑草に周りを囲われ、古びた雨ざらしのソファに快晴の今日腰かけていた。今日といっても、マルクス教授顕現後のいま、確かな日付はもはや存在しない。麻のジャケットのポケットに収まった懐中時計を取り出し、しげしげと刻む時を見た。

 陽射しが、だんだん強くなってきたし、学園祭を催しているんだから、六月某日になるのかな。ライトは懐中時計を握り締めたまま、大きく伸びをする。カレンは、語学留学のため、ロンドンへと飛び立っていた。これもマルクス教授の力の及ぶところだろう。

 カレンが発つまえに撮った映画は、全編にオーティス・レディングの曲をあしらった、恋愛ものだった。ライトは負傷した痛痛しい姿で出演し、ここから通路を隔てた共通教育棟の教室で上映中だ。

 ロンドン付けの招待状が、仁のもとに届き主人公である彼と、ライトの間で揺れる女心を後輩の看護学生が演じる。かくして純情な乙女は、頭部に包帯を巻いたライトを振り、仁と一緒にロンドンへと旅立つ。招待状がどんな内容であるかは、まったく触れられず、どこか寓意的な物語なのである。ライトは、まるでゾンビのようで大変気持ち悪く、演技も異常な身体の動きや、変顔のオンパレードという有様だ。だから、こうして逃げてきたわけだ。

 白昼の怠けものたるライトは、本大学に在籍しているのではなく、月曜午後五時の映研の部会に顔を出し、小売業のレジ打ちと袋詰めのアルバイトは去年の暮れに辞め、普段は通信制高校生として火曜日に実家のある街の南東に位置する電車で一時間はかかる学校に通い、あとは、昼過ぎまで寝て、起きても特にすることはない生活を送っている。

 怪奇映画だよな、ほとんど、とライトが私に語りかけた。私は、赤が剥げ落ち、中身のクッションが飛び出したソファに浅く座り、黙黙と筆記している最中だ。黒野が森副より部長の職を受け継ぎ、ただでさえ危険水域にいた真平は、決選投票で敗北して、完全に姿を消し、速木も事実上退部し、風通しがよくなったかに思いきや、森副が影で支配力を強め、あれだけ自由だった機関誌も上映会も検閲が執り行われる始末となってしまっていた。残念なことだ。革命戦士のサークル内消滅は、マルクス教授と森副の手によって完遂されたことは、黒野新部長の予言としてこのノートにもすでに記されている通りだ。否、森副の関与は、彼の権力に迎合して露見していなく、ここで初めて私が指弾するものであった。いまでは黒野新部長も森副邸で犯した事件について弱味をつかまれ、唯唯諾諾につき従っているのである。許すまじ事態だ。

 懐柔された黒野新部長は今回新作を出品せず、森副が彼にカメラを任せた大作を発表する算段である。ライトの声かけで企画されたオムニバス映画のあとに上映の運びとなっている。ライトは、これを潰そうと考えていた。

 奇しくもオムニバスのテーマは、予言だった。森副とマルクス教授のマイナスの力に屈服する現状を、なんとしてでも隠喩的に脱却せねばならない意志で作品内に埋め込んだつもりだ。偽予言者にでもなんにでもなってやろう、ライトは本気でそんな覚悟をしている。いまが世紀末のハイライトなんだ、いまやらなきゃ、いつやるってんだ、馬鹿馬鹿しい。俺はやるよ、運のいいことに支えてくれる仲間もいることだしな。

 まずは、速木が家庭教師をしていた教え子のマエダ、次にシネ通のタニ、続いて亀嶋の高校時代の同級生マエバ、最後はパンク野郎ツヅキの少数精鋭部隊の四名だ。

 彼ら、彼女の力添えがあれば、まずは手始めのツリカン、タテカン撤去作戦は、なんなく遂行可能だろう。これでタイムテーブルのゴールデンタイムである午後三時上映の森副の映画は、新規宣伝が冷え、知り合いの来客どもが路頭に迷い、集客がガクンと落ちるはずに違いあるまい。

 まだ決行には少し余裕がある。予言オムニバス映画先頭のライトの作品終了後、残り作品上映時間と休憩時間内に、すべて行動をつつがなく執り行わなければならない。我ながら完璧な計画だ。愉悦に浸っているとセイタカアワダチソウが茂る先の窓を開けるものがいた。ゴワゴワの髪、銀色フレームの眼鏡、剃り残しの口髭、斜視の際立った顔つきの三井だ。

映画終わるぞー。次の上映準備そろそろ始めろってさー。

 承知。ライトは手早く懐中時計をジャケットのポケットに忍ばせるやいなや勢いつけて、オンボロのソファから立ち上がった。私もあとに従う。中庭を足早に横切り、通行人でごった返す廊下に合流し、角を曲がってすぐの上映会場に戻った。道すがら壁面に貼られた勧誘チラシが目に痛かった。初夏の風が舞い、チラシをヒラヒラとはためかせる。太陽は中天を過ぎ、少少傾いた光をN大に注ぎ込んでいた。さあ、ここからが祭りの本番だ。みんな、ついてこい!

 あまりの自信過剰で、物事を見る目が閉されている。続けざまに、この世はすべて虚構なんだから、なにやってもいいんだ、とか、速木の口癖の「なんでもあり」を繰り言のように喋り散らして、リールを8㎜映写機にセットするライトの言動を隣で聞いているとそんな気分になってくる。さあ、寄ってらっしゃい観てらっしゃい、お立会い、お立会いだよ、ささ、始まり、始まり、ときたもんだ。声は、次第に小さくなっていくのをみると、まだ最低限の自制心は働いているみたいだ。

 十五分ほどの尺の映画は準備万端整い、ライトは、スクリーン横のアナログ時計を見やり、しばし放心したのち、口を真一文字にし、顎に梅干しをつくると、司会者が現われて手短にタイトル、監督名、タイムを告げて立ち去るのを見送り、ゆっくりと右手を上げた。それを合図に照明係が従順に明りを落とす。さて映画はリーダーの黒味を映していたかと思ったら、画像は二階建てになるわ、流れるわで、どうにもこうにもスムーズに映写できないまま、混乱のうちに闇は解かれ、大失敗が点灯した光によって文字通り白日のもとに晒される痛ましい結果となった。

 マルクス教授の御力也。ライトは血相を変えており、司会者が映写機を覗き込んで当惑したライトを心配し近寄ってきた。駄目だ、フィルムがからまってグチャグチャになってる。それは僕がなんとかしとくから、ライトは、お客さんに中断の説明して、と機材に慣れている司会者はいった。ライトは、任せます、と長机と長椅子のあいだを蟹歩きして持ち場を離れ、教壇まえにすくっと立ち、正面を向いた。

 監督の大葉です。映写トラブルでただいま復旧作業中です。もうしばらくお待ちください。緊張して語尾の震える声音でいい終わり、虚空より亀嶋のほうへ視線をあわせると、彼は両手で頭のうえにバツ印を形成していた。ライトは深く嘆息を吐くと、目を潤ませて、誠に残念ですが、本作は上映を取りやめます。またの機会があれば是非ごらんいただきたい所存です。では休憩を挟んで、次作のプログラムに移りたいと思います、といった。

 明らかに気落ちしているライトに鳥田が寄りそった。沈んだ顔を笑ってみせ、彼と視線をあわす。亀嶋の隣には次の上映者荏原がいた。荏原は深刻な態度とは正反対の快活な表情で、映写機に絡まったフィルムを巻き戻そうとしている亀嶋になにごとか語りかけている。サブの映写機、部室に取りにいってくるよ、と事態を察した仁が、傾斜になっている講義室の上方から急ぎ足で近寄り、亀嶋たちの反応を待たずして、さっと向きを変えて教室を猛スピードで駆け出していった。

 亀嶋の黒い洗いざらしのTシャツの両袖を抜けた剥き出しの長いほっそりとした両腕には、薄らと柔らかい毛がステップ地方の草原の如く生えていた。暗幕を張った室内は、無風状態で外気が舞いこむことはない。なので、彼のフェロモンを周囲の女衆に広範囲に渡って撒き散らしはしなかった。でも一心不乱に作業に打ち込む姿勢は、少なからず風を起こした。それは性差を越えて彼を応援する力になった。この難局をどうにか突破してほしい切なる願いが突発的で無軌道な性欲のように、終着点を目指して我らに勃興したのだ。

 あかんわ、尾張生まれ七宝町育ちの亀嶋は縁もゆかりもない大阪弁を弄し、現状のどんづまりぶりを表現する。ハサミで切るしかないな、続けて最終手段を口にした。残酷無比な代執行の許可を監督は承認した。俺、取ってくるよ、ライトは電気係よろしくな、と鳥田が素直ないい子を演じ、いった。ライトは砂埃を上げんばかりのスタートダッシュで講義室を出てく鳥田を必死で止めようとするも潔く判断が定まらずに躊躇した時間が命取りになった。俺の美的計画が。ライトはもろくもひび割れ崩れゆくおのが定理に心を狭くして病的に痛くなり苦しかった。

 風は己で起こせるぞ、内心、声を嗄らすように雄叫びを上げる。時間は刻一刻と過ぎてゆく。荏原はキョロキョロしながら落ち着きなく、スプライサーじゃ無理かな、カッターはどうだ、スプライシングテープを剥がすとかは、と無責任な思いつきをジャブでも打つみたいに楽しもうとしていた。亀嶋は、角度がこれじゃあねと律儀に返答している有様だ。くだらん。

 荏原作品上映中を、電気係としての役割に甘んじるのは甚だ遺憾だ。なにがなんでも誰かと交代しなければなるまい。そうしないと同志たちの決行に参画できない。俺の持ち場に穴を開けてしかるものか。と、亀嶋が後頭部に手を組んで、ライト、休憩時間延長するってみんなに知らせて、といった。即座に荏原が、いけない、いけない、表のタイムテーブル修正してこないと、ライトさんの十五分ですよね、いま十分経過だから休憩も入れて、五分ですか! 十分ですか! と問う。

 二人がごちゃごちゃいい合いをしているのを横目に、私は沈思黙考する。これだけ余裕ができれば安心だ。そもそも鳥田がハサミを持ってくるか、仁がサブ映写機を持ってこないことには、上映再開は、ままならない。そうするとライトが代わりの電気係を務める話も鳥田か仁がいれば、わやになる。なんだ鳥田の奴、馬鹿なこと抜かしやがって、けたくそわりー。ライト! 亀嶋が大声で呼びかけた。延長なしだよ。タイムテーブルにも変更なし! なぜなら、息せき切って仁が小振りの映写機を担ぎこんできたので。ライトは壇上につき、お客には亀嶋発言が響き渡っていたけど、繰り返しアナウンスした。じき、鳥田もくるだろう、ふふふ。さすれば我は自由の身、野に放たれて悪行の数底しれぬ黒野新部長、森副、マルクス教授の支配システムに対し、怒りの鉄槌を食らわしてやろうじゃあありませんか。諸賢読者よろしゅうに。まるで上の空で恍惚の表情を浮かべ上映時間の注意を促し終えたライトは、鳥田が着席していた長椅子に腰かけると、彼を待つため、腰を曲げて出入口を監視し始めた。

 さてと。うーむ。えーと。あれれ。おかしいなあ。仁が用意した映写機には、もう荏原のリールは取りつけられ、すぐ横で亀嶋が絡まったフィルムとの格闘をやめ、故障した映写機の電源コードを抜いて丸めている。鳥田が遅いぞ! ライトは立ち上がると、微笑んで荏原の様子を見守っている仁に向かって、口角泡を飛ばして、鳥田とすれ違っていないか訊いてみた。仁は即座に応答し、ハサミは受付に置いてある旨を明かした。鳥田のダッシュは無駄骨だったのだ! さあどうしたことか、鳥田はいったいどこへいってしまったのだろう。

 ライトは、そのまま司会? 俺が鳥田に代わって電気やろうか。こちらの懸案をやすやすと見抜いたようにエリートの卵らしく次のシフトを誰彼に指図されたわけでもないのに俺のそばまできて仁はいった。こいつ来季の部長候補だな、そして彼の後釜はさしずめ同じM高出身の荏原でどうか。司会は亀嶋くんに再登板してもらいたいよ、俺はこれから兄弟二人でいく用事があるんでね。とかなんとか嘘ではないが過激工作をすることなぞおくびにも出さぬようなものいいをした。

 それを聞いた亀嶋が、フィルムどうするの、またつなぎ直して再上映しないのかい、どうやらテープの貼りかたが雑で絡まったみたいなんだよね。はあ、もう諦めるよ、フィルムの詰まりは申し訳ないが亀嶋くんに任せてもいいかね、司会も頼むね。えっ! 二役も無理だよ、映写機はいまから外で速く直したいしね、今日使わないにしても、ほっとくわけにはいかない。誰か代わりを連れておいでよ、一年は駄目だよ。鳥田の奴、ほんとなにやってるんだ、俺をはめやがって、クソ!

 席に着いた仁を確認し、ぶつぶつ文句を小声でもらして、私だけに聞こえるように同意を求めた。もしかしたら、これは鳥田の策略なのではないかと疑いたくなる展開にやっと気づいた。俺を司会役に縛りつけ、身動きを取れなくさし、ちりぢりに散った四人の革命戦士を食い止めるための第一段階として司令塔の俺をはめたわけだ。間違いない、そうに違いない。なんなんだ、許せない、あいつ縛り上げて、逆さ吊りにして鞭打ち千回でなぶり殺しにしろ!

 憤懣やるかたない怒りを抱え、暗幕をよけて廊下に出ると、受付に三井がいた。へ、上映中止みたいだな、こりゃあ傑作だ! 眼鏡の奥の斜視で充血した瞳をしばたたかせ、彼はいい放ち、馬鹿じゃあないの、学習能力がなさすぎるだろ! タコ! ライトは激昂する三井に気圧され、なにもいい返せられない。いったいどうしたっていうんだ。

 上映中止は初めてだろ、いい加減なこと抜かすな、そっちこそタコだ! 大馬鹿ものはおまえのほうだ、このトンチキ! 俺はこういう望遠鏡で、なんでも見渡せるんだぞ、地球を宇宙から衛星カメラで覗くより、もっともっとすごいもんなんだぜ。観世音菩薩並みにな。はあ? おまえ自分でなにいってんのか判っていってんのか、ド阿呆、そんなおもちゃみてーなもんでなにが見えるっていうんだい、ただ視界が狭まるだけじゃあねーのか、クズ!

 判ってねーのは貴様のほうだ、トンマ! かのマルクス教授より授かった代物だぜ、これは、ははは。俺は口ごもった。こいつ完全にマルクス教授の操り人形になっている。みんなが危ない! 俺は咄嗟に廊下を北に走りだした。司会は仁が電気と兼任でもすればことたりるだろうよ、へ、あばよ! ボンクラどもめ! ライトは、構内を突っ切って学舎を見回せる広場で足を止めて、私が着いてきているかを確認した。

 周囲は群衆で溢れ返っている。なじみの顔はどこにもなかった。私は弟とはぐれてしまった。三井がいやらしく隣で笑っているのに気づいた。毛むくじゃらの袖を捲った両腕にしっかと抱きかかえられている望遠鏡。知らぬうちに彼の舌が触手のように伸びて私の身体の自由を奪うかの如きに不快極まる感覚が全身を走り、ペンとノートを絡め取られてしまう。彼は器用にも舌先でペンを握り、スラスラと以上の文言をノートに書き記した。

 

 

       

 

 どれぐらいのときが流れただろう。甘い匂いで脳が呆けてゆく。時間が際限なく引き伸ばされているかのようだ。私は長い眠りに就こうとしていた。どうにかして睡魔に抵抗を試みるが、まったく無駄であることが判った。なんの迷いも消えてなくなるまで時間の問題だ。三井のペンが立てる音を静聴する。まるで揺り籠のなかでスヤスヤ眠っていた赤ちゃんだったころみたいに満ち足りた意識が、当時の自覚反応を記憶しているはずもないのに、だぶって認められた。

 もちろん、立っているわけにもいかず、へなへなとその場にへたり込んでしまい、うつらうつらと意識が遠のいていく。そして幻聴のような浅い眠りのようなまともな判別がつかない状態で、地の底からか細い声が次第に大きく野太い地鳴りに似て突き上げる言霊となって閉じつつあった聴覚を襲うのだった。お兄さん、お兄さん! 肩を揺さぶられ、はたと目をしっかりと開いた。鳥田くん! 心配そうに膝まずいて後ろから私を抱き抱えている鳥田がいた。

 いやはや、いったいどうしたんだろう。目を見合わせて二人は、笑顔で短い言葉をいくつか交わし立ち上がった。お兄さん、こんなところで倒れて大丈夫ですか? びっくりしましたよ、と鳥田は床に放ってあったハサミを取り戻し、チョキチョキ動かしていった。ああ、自分でもどうしたんだか判らないんだ、あれノートは? 辺りを捜すもどこにもなかった。ノートですか、あれなら三井が持ってきましたね。なに、三井くん! どうして三井くんが持っていくんだよ! あれは、私のプライベートブックだよ、いーや、あれはサークルみんなの公共財です、え、なにいってるの、おや、ハサミの刃が滴っているようだけど、なんか切ったの? 血ですよ、三井の、は! 三井くんのなにを切ったらこんな血が! 舌ですね、ぎょ! やばいよ、やばすぎる、あんた狂ってる! 冗談でしょ、本気と捉えてもらってなんの差支えもございません、げげ、私の舌も切断する気なのかい! お望みとあらば。

 脱兎の如く、私は逃げ出した。まずは追ってくる鳥田をどう撒くかが喫緊の問題だ。そして、三井の手中に落ちたノートを私が倒れたとしても、いかに奪回するのかも命と引き換えにするくらい大事な事項である。とにかく継承するまで生き延びなければならない。私はがむしゃらに走っているうちに、ここがN大のキャンパスではないことに思いいたった。いつのまにか異世界に迷い込んでしまったらしい。弟の所在も不明なままだ。うしろに、鳥田の気配がしなくなった。振り向いて念のため確認するが、やはり彼はいなかった。どうやら諦めたらしい。

 目のまえの場所は、全体的に靄がかかり、赤茶けた色調をなしている。地面はゴツゴツした岩の塊が散見し、足場の状態はひどく悪く、もしかしたら鳥田は追いかけている途中でけつまずいて遅れをとったのかもしれない。周囲をキョロキョロと眺めて近場の岩石に隠れて様子を見るのと休息するのでジッとしていると、どこからかシチューのいい匂いがしてきた。

 鳥田が、ハサミで三井の舌をちょん切った。三井はマルクス教授に洗脳されているはずで、鳥田も魔の手に落ちたものだと推測していたが、どうやら二人は敵対関係にあるみたいだ。いったいなぜ? あの望遠鏡がなにか争いの要因になっているのではないだろうか。しっかし、いい匂いだな、どこで煮ているんだ。私は好奇心が抑えられずに、中腰の姿勢で近辺を探索し始める。どうやら、靄のさきに見え隠れするボロ小屋が怪しいと踏んだ。

 甘い香りに誘われて、フラフラと前後不覚に陥り、小屋の窓にへばりつくように身を寄せた。なんて魅力的な馨香なのだろう。小腹も減ってきたし、是非食事にありつきたいもんだ、となかを覗くが、カーテンで閉ざされた視界を外に捨て、木扉を大胆にもノックしてみた。反応なし。もういてもたってもいられずに、私はノブに手をかけ、左に回した。扉はあっけなく開き、まっくらな屋内に薄曇りの光が当てられる。

 前方に玉すだれが淡く輝き、左右にも扉があった。靄に包まれたこの建物の外観は、玄関と窓が部分的に視野に映っていただけだったために、私はてっきり掘っ立て小屋がなにかだと認識にていたのが誤りで、造りは簡素だが、大きな一戸建てなのかと得心する。しかしさっきから大声を上げて、呼びかけるも閑古鳥が鳴くだけである。でも倉庫なんかではなく、たたきがあり、靴は脱がなければならないようで、私は無断で侵入しており、さらに土足で家に入ろうものなら、ますます傍若無人な輩と、家主にこっぴどく叱られるのを怖れ、常識の通じない世界にいることは重重承知だが、非礼をこれ以上重ねず最低限のマナーを守った。私はもちろん泥棒でも、まかりまちがっても襲撃する兵士や暴徒でもないのだ。

 屋内は暗いため、外光を導き入れなければ危険なので、玄関を開けっぱなしのまま、照明やスリッパなんという文化的な代物は、備わっているわけはないだろうと、さして探しもせず、匂いのおおもとに辿り着きたい欲望をうまくコントロールできなくて、涎をボタボタ衣服に垂らし垂らし、玉すだれを通り抜ける。

 板張りされたお勝手の中央にかまどが鎮座せしめ、グツグツ煮え立つ鉄鍋に対する火力を、こちらに尻を向けてしゃがみ、火かき棒で薪を混ぜて微調整しているらしき半袖姿の男がいる。男は私の存在に構うことなく、膝を伸ばすと、手にしていた火かき棒をかまどの横に立てかけ、鉄鍋に突っ込んであった菜箸で中身をグルグルかき回し始めた。“ティティーティーティ、ティティーティーティ、ティティーティーティ”とハミングして、私はその曲がテレビで視聴した「カーニバル」だったことを記憶していた。

 床に直でかまどを載っけて火事になったら大変だと、格子状の背丈より高いパーティション越しに斜めから見ていると、暗がりに赤赤と燃える炎があまり鮮明でないという、宙吊りにしばしされた疑念が、ようやっとくっきりと学芸会で扱うみたいな細工を凝らした書割のかまどである解になり、馬鹿馬鹿しく思った。自然光が取り込めるはずのはめころしの窓には遮光カーテンが引かれ、玄関扉の光を十全とは届けず、偽物のかまどの上に載った鉄鍋と菜箸、火かき棒は本物らしく、でもどうしてか湯気がゆらゆらと低い天井まで昇っている有様だった。

 はめころしの窓? 不自然な分厚いカーテンが引いてあるのに、なぜ判るのか、それはこの建物が我が家だからだ。となると当然、あの鍋をつついている男が、誰あろう兄自身であってなにが不思議だといえよう。その通りに、男は、ゆっくりと振り返り、切れた舌を曝して、私に向かって大声で叫ぶのだ!

 口は赤黒く血だまりで汚れ、血は衣服を伝って床にまで垂れている。そして叫び声は、言葉を成さず、混沌の王が踊りに戯れる奇妙な音楽のように視界を重ねて私を不快にさせてしまうのだった。調べもへったくれもない叫びは、地団駄を踏みだした兄の動きとともに次第に逓減し、白目を剥いた形相で、手にしていた菜箸を床に落とす。なにもできず異常な状況に呑み込まれていると、兄は立てかけてあった火かき棒をひっつかむと、なんと高高と振りかざした。

 強烈な一撃が、パーティションに身を隠していた私に浴びせかけられた。目ん玉がギョロリとこぼれ落ちたかのような衝撃を両目の窪みに受け、そのまま後ろへバタンと倒れてしまう。泡を吹き、熱い血がドクドクと顔に滴り溢れてゆくのを、虚しさのなかで感じている。あっけない生涯だった。色気のあることはなにひとつない“愛とは無縁の愛兄弟”とは黒野新部長はよくいったものだが、まさにさもありなんである。

 強い風が木木を揺らす音が聞こえた。岩石だらけのグランドキャニオンかエアーズロックみたいな土地かと決めつけていたが、どうやら違うらしい。強烈な風の音を心地よいといってもいいほどの死の悦楽、生の最期の爆発的輝きが私を満たしていた。しかしそんな安息の時間が、騒騒しい足音に打ち消された。ここは二階も存在するようで、階段をドタドタ駆け降りる物音が、それも一人ではない複数がミシミシ床板を踏み鳴らして、やかましいほどの迫力をもって私に近づいてくるのだった。

 朗らかな合唱風に声を揃え、“我らは、天空に鉄槌を、加える下僕なり”と歌っているみたいだ。格子状のパーティションは廊下と台所の間にあり、彼らは、奥まった廊下の突き当たりの階段を降りて、ぞくぞくと朦朧とする私の暗い視野に現われては重なり、こっちにやってくる。あまりに騒がしく混乱していて狂気のうちに事切れるしかないとでも主張しているかの如きに。

“お、お、お、お、お”とかけ声をして行進し、私を容赦なく踏み潰していきそうな勢いだ。しかし一列縦隊のまま止まった。先頭を見上げるに、三井の顔と、その肩口からヒョイと頭を覗かせている、ひょうきんな表情をあえてしている風情の鳥田が認められた。なんてことだ、好き好んで奴らの待ち伏せにまんまとひっかかってしまうとは、飛んで火に入る夏の虫とは、まさにこのことだ。

 私が舌先を切断され、揚げ句に頭部に激しい裂傷を被らされ、且つ我が家までもが変形され、マルクス教授の支配下に陥落されたとあっては、もう手も足も出ようにないのは明白だ。とっととこんな茶番はおしまいにして、新しい登場人物たちによる、新しい物語を始めから語り直したほうが、どれだけ読者諸賢に有意義なことだろう。私はもはや命尽きるのも時間の問題で、続きをしたためるには限界であり、いまこうしてノートに記す文字は震えてしまい判読もまともにできない末期的状況である。

 おやすみなさい、庭の松の木陰に息を殺して隠れ、耳を澄まして動向を探ろうと必死の密使の存在が、家人の片割れが就寝するのを裏手に回り込まないでも確認できたのは、夜風を入れる開け放たれた掃き出しの窓に重ねられた網戸では、性質上、防音において、役立たずの筒抜け状態だったからだ。レースのカーテンのようなものもなく、あわよくば、室内の二人が、注意を外に向けてみれば、怪しい人影を発見してみてもなにもおかしくはないことも事実である。

 なにをおいても喫緊の課題は、弟を悪夢の世界から目覚めさせることである。そのためなら私は、どんな苦労も厭わないだろう。弟が、大学の広場で突然倒れ、衆人環視のもと、かけつけた救急隊員らに担架で担がれ救急車に運び込まれ、Y病院へと連れられていったのを、リアルに回想していられるのは、私がまだ青春の残滓を持て余していたころまでで、今日では、記憶はおぼろげに移ろい、日日の生活のなかで、あの痛ましい通り魔事件は、閉架の当時の新聞でもレファレンスコーナーで申請しない限り、もう私だけではなく誰でも真実を雄弁に語れるものはいないのだ。

 弟が執筆中だった、「グラスゴー卿の通信販売」は、私が入院している彼にノートパソコンとプリンターを持っていってやり、ベッドで二週間頑張って完成させ、然る新人賞へ、期限ギリギリで院内のポストに投函し応募したかたちになった。弟は、頭部に網網の包帯をして、傷口の周囲は、バリカンで毛髪を刈られた格好で退院の日を無事迎えた。

 草熱れの庭にビーグル犬と突っ伏し、朝のままであればおそらくまだ目脂だらけの顔で、四葉のクローバーを探していた。リビングの窓からそんな動静を見守りながら私は追い込みの小説をパソコンに入力している。「舌を入れた鍋は煮えたぎり、私にそっくりな男は、手にした菜箸で味見でもするのか、箸を突っ込み、グルグル軽くかき混ぜたあと戻すと、滴る汁を一舐めした。お次こそは具の味を確かめんと、箸で舌を串刺しにしようとして何度も突いて、ようやく貫いた舌を思いっ切りかぶりついた

 出汁の旨味成分が十二分に滲み込み、上上のできである。牛タンより柔らかく、舌苔のこびりついた革命戦士の舌は、天に昇らんばかりの美味礼賛なのだ。うめぇ、なあ、ひっく、酒よ、酒よ、だ。男はガニ股でホットプレートのまえを離れると、己と同じ背丈ほどの冷蔵庫を開けて、キンキンに冷えたノンアルコールビアーを取り出し、やおらプルトップを上げ、ぐびぐび扉も閉めずに一気飲みした。

 たまんねえなあ、と独りごち、腰で扉を押して閉めた。舌は、まだ五つもある。いましがた平らげたのは、とても弾力があったので、タニのだろう。残りは冴えない醜男五人だ。部屋着のズボンに押し入れられた望遠鏡に触れた。これで革命戦士たちがツリカン撤去作戦のあと、部室裏に集合するのを知ることができた。先回りして、一人ずつ鳥田のハサミで奴らの舌を残らず切断してやった。血をダラダラ垂らして、あいつらは全滅したのだ。

 三井は、ほくそ笑んだ。だが、彼のうしろで鳥田もほくそ笑み、それは三井の行動に対してであった。鳥田は、パンと柏手みたいに手を叩くと、三井に自分の存在気づかせ、舌を出してみせた。三井は、音もなくいつのまにか階段を降りて台所にやってきた盟友の鳥田に正直驚いた様子だった。鳥田は、舌を引っ込め、おもむろに、こう切り出した。あんた、舌もないのによく味が判るね、馬鹿じゃないの、と。三井は怒り心頭に発し、身体が熱く火照り、冷やかな感情が脳天より爪先まで駆け巡った。

 しかし、瞬時に芽生えた怒りの感情に烈火の如く流されてゆくのではなく、戸惑いを覚え自分を持て余した。くちゃくちゃガムらしきものを口に頬張り、冷徹に三井を凝視している鳥田に、すぐ怯えるに堕した。私には、舌がない。つまりは発話できないというわけだ。三井は首をガックリと落とし、眼鏡が涙で曇った。

 ぐずぐずと泣きだし、嗚咽もまじえて、鼻水をすすっている三井に、優勢の鳥田は、じゃあ、望遠鏡を出してもらおうか、といった。望遠鏡は、三井のズボンのポケットにはみ出して捩り入れられているのを知ったうえでの高圧的な命令だった。縮められた御所望の品を三井は、怒りとも恐怖ともとれる震えを引き起こしつつ、右手で当たりをつけてポケットより、捻り出すと、不明瞭な雄叫びを上げて、吊るし紐を鳥田の首にかけ。望遠鏡をブランブランと垂らした。

 溢れそうな感情を必死で抑える。鳥田は押し倒したい衝動で、三井は泣き崩れんばかりの人格の破綻を。沈黙を破ったのは攻撃的なほうだった。それ、と煮え立つ鉄鍋を顎で示し、おまえの舌が二つに裂けて入ってるんだぞ、大葉兄弟の舌じゃあねえ。あいつらは、うまく逃げおおせたんだとよ、便所でマルクス教授と交信して判った。この望遠鏡も使う人間によっては有用にも無用にもなるってことだ、クソ!

 おまえは、俺が、おまえの指示で、大葉兄弟の舌を切ったと思っているようだが、俺がいま書いているノートの切れ端には、俺がおまえの舌を切り、兄弟は逃げ延びて、死んだ振りをして二人ともこの家で姿を完全にくらましたんだよ。手がかりは、残されたノートの残骸のみ。俺が続きを書いて、真相に辿り着かないといかん。おもえも満身創痍だろうが、最後の奉公だと思って、協力してくれ!

 ヒントがないわけじゃないんだ。ノートのなかに奴らの痕跡は、確かに記されている。特に俺が目をつけているのは、まずなにより“密使”だ。密使がなぜ深夜の庭に息を潜め未来の兄弟の動静を観察しているのか。俺が推理するには、二人が寝るのを待って、なにか盗んでやろうと画策してじゃねえのかなと。あくまで俺の直感的な見立てにすぎんのだがね。おそらく雇い主は永遠の支配者マルクス教授なのだろう。

 密使のくだりは、まえのページの破片とは、明らかに筆跡も書き道具も変わっているので、これはいままでのうちのだれかが記したもんじゃねえだろう。またまた俺の確信のない直感を披歴させてもらうとだな、密使うんぬんの文章は、だれが書いたもんか判らねえ、だが、俺はノートの切れ端の束を廊下で発見したんだけど、そこに映研部員の部室前で撮った写真もあったんだ。でもどうも一人だけ見なれない顔があったんで、しばらく考えてみたんだがね。どうやら俺のできの悪い記憶では、そいつがゴトーだと断定してしまったのさ。

 ゴトーについては名前と顔以外、ほとんど情報がない。おそらくたまたま写真を撮影した日にだけ現われて、あとは姿を消したように思う。つまり、俺がなにをいいたいかといえば、ゴトーを知らないわけだから、知らない筆跡はゴトーの字であることと推察されるってーわけだよ。なんにせよ、映研部員でなければ、このノートに字は書けないのがルールだからな。

 俺たちは、M大祭まえに、うえの指示で、過去の雑記帳さらには部員の感想用紙までを含め徹底的に筆跡調査をした。なぜこんなことをするのかは、愚問だと一蹴され、黙黙と海馬に名前と文字との照らし合わせを二人で記憶していったよな。まあ、いっても名の挙がった部員は、せいぜい三十人程度だったから、国公立大受験で鍛え抜かれた我らのエリート頭脳の実力を発揮すれば、なんのことはない。お茶の子さいさいなのだ。しかし、間の抜けた話しで、渡されたリストにゴトーの名前はなかったんだぞ。

 でも、災い転じて福をなすじゃないが、この大ポカが“不明の文字=ゴトー説”を浮上させたんだから大した配剤じゃねか、えー」

 

 

       

 

 無力となった私は、他人にはなんの落ち度もない優雅な日曜の昼下がりを送っているように映るだろう。さらに、赤の他人の目を通すと、中年親父の勝手気ままな、小説遊戯にでも興じているしかない滑稽さが微笑ましい、まるで欠伸まじりのおはようの挨拶なぞをいまにもするみたいだと、ぼんやりと思われるくらいのようだ。あのときは万事休すの絶体絶命だった。通り魔事件でごった返す大学構内で、三井に奪われたノートを再度奪回し、物語を紡いで、ライトは手遅れで襲われてしまったが、私を救済してくれた命の恩人のゴトーが、幾年月のときを経てマルクス教授の軍門に降り、我が家へ、彼が郵便で返してくれたノートを盗みに入り、あの封印したはずの暗黒の力をいままさに解放せんとしていることへの心の底よりの深甚なる恐怖を抱いて死を覚悟している私が、これを、気晴らしのための戯れでやっていようとは、だれも気づいてくれはしない。

 鳥田は続けて、喋る。この切れ端からノートの所有者は大葉兄であることが推察できる。やつはマルクス教授誕生の秘密にも深く関わっているのでな。ノートが力を持つのもそれに関わっているわけだ。そもそもマルクス教授とは、いったいなんなのか。真空のメカニズムを知るものは、私ではない。そうノートこそ答えであり、未来記だ。マルクス教授とは、いままさに生まれんとする存在なのだ。もしくは永遠に生まれようとする意志なのだ。

 おい、三井。俺は書くことで手が塞がっていて片手では長く伸ばした望遠鏡を支え切れないんで、望遠鏡を俺の目に当てて覗けるようにしてくれないか? 頼むよ。三井は鳥田の指示通りに従順さをこれみよがしにみせつけるみたいに、鳥田の首に垂れ下げた望遠鏡を持ち、するすると伸ばして紙片とペンに触れないよう、そっと彼の血走ったまなこにあてがってやった。ありがとう、ありがとう、まるで潜望鏡の如く感じるね。これでゴトーをリサーチしてやりゃあいいのさ。おい三井、つまみで広げてくれや。

 よしよし、それでいい、どうやらあいつは「らいぶらりー」にいるらしいな。おまえもいったことあるだろ、N大近くの漫画喫茶だよ。俺は『ドカベン』の一巻を読んだな。初めは岩鬼ドカベンって呼ばれているんだぜ。驚いたかい。おやおや、ゴトーのやつ、机に藁半紙を沢山広げてなにか必死で書いているな、もうちょっとズームしてくれ。なんだ、なんだ、感想用紙みてーだな。なになに、これはどうやらM大祭の感想用紙だぞ、おい、あいつ感想を捏造してやがる! ノートの筆跡とも違うそれぞれの字体で次次になりすまし感想を書いているんだ! 鳥田は絶叫し、目をしばたたかせた。なんでえ、なんでえ、あの野郎、森副映画の評判をガクンと落とす算段らしいや、策略家のライトのアイデアだろうが、正直驚いたね。ここまでするこたーねーのにね。はいはい、判りましたよ、いますぐそちらにワープしてすべて感想用紙を地獄の業火で焼き払ってやりましょうや。はは、ちょろいもんだよ、さっさと終わらすぞ、タコ! でも駄目だ、ワープ機能がやはり家の圧力で作動しない、まいったな、大葉兄弟にもうこんな力はないはずなんだが、どうしたもんだろう。マルクス教授の御尽力を仰ぐしか方法はないようだ、ここで待とう、三井。

 そのあとのことは、みなさんお判りでしょう。過去の大葉側だったゴトーではなく、未来のマルクス教授側のゴトーが、鳥田・三井封印から、暗黒の力の解放へとノートに変更を加えたのだ。多少のタイムラグが起きはしたが、それは静かにつつがなく、まるでなにかの復活の儀式のように執り行われたらしい。詳し経緯について知るものは、マルクス教授とゴトー本人しかいないのである。

 深夜に玄関チャイムが鳴った。私は、パソコン画面を眺め、それを無視しようと努めたが、執拗にあきらめることなく何度もチャイムは鳴らされたので、私は、座っていた椅子を台所まで担いでいって、椅子の上に立ち、チャイムの電池を抜いた。しかしお次は、玄関扉をドンドン叩き始めたので、私は近所迷惑を考え、降参して玄関を開けた。顔を出したのは、鳥田と三井ではなく、意外にも、森副と黒野だったのには心底驚いた。

 居るんなら、はよ、開けんかい! まえに立つ黒野が懐かしい岐阜弁でまくしたてる。森副さんは舞台挨拶で疲れているところをわざわざ大葉家くんだりまで高速代払ってやってきたんだ! まあ、まあ、黒野もういいよ、お兄さん久し振りだね。突然邪魔して悪い。はい、どうも。こんな話聞いてないんだがなぜか私は頷き、二人の闖入者を、さっきまでパソコン作業をしていた部屋に誘った。私は、殺されるだろう。ついにときがきたのだ。人生最期の世界をじっくり目に焼きつけておきたい。

 おのが手で創り出した登場人物たちに殺されるのなら悔いはない。これが作品のクライマックスであればなおさらのことだ。

 いまさらどれだけ悪あがきしても所詮無駄なのだ。潔く果てようではないか。マルクス脱却のため一生を棒に振ってきたようなものだが。いや、ちょっと待てよ。舞台挨拶? 森副さん、まだ映画撮ってるの? んなことより、茶出せ、茶! いやはや心遣いが足りませんで面目次第もないです。私は台所に走って、お湯を沸かし始めた。

 居間での二人の会話が洩れ聞こえる。やっぱり花藤の原作の力があったな、いやいや、森副さんの演出力がなきゃあ、あのラストシーンはないですよ、絶対。ハハハ、まああれは何度もテイクを重ねたからね! 客の入りもよかったんじゃあないですか、「大虚構」か、まさにMが大虚構ってわけだな、なるほど、そんなメタファーがあったんですね。得心得心。“大虚構=M大祭=マルクス”やはり、ついにマルクス教授が商業映画のなかでも実在を誇示するか。禁じ手を逆手にとったか。これより一層の支配を強めるだろう。マルクス教授の映像化。肖像画すらあんなに危険があったのに、まさに最後の審判にふさわしいものなんだろう。

 私は、ティーバッグを沸騰した薬缶に投入し、湯呑を三つ盆に載せ、右手で持ち、薬缶を空いている手で電気焜炉から持ち上げて、居間へ運んだ。

 もう死は、私だけのものではなく、全世界、全宇宙規模の問題になった。物質が滅びるときがやってきたのだ。

 鳥田は県庁、三井は会計士、速木は―。永遠に続くかのような、三人のお喋りは、後夜のうちに終わるだろう。さよなら、世界。さよなら、我が青春。

 二階で寝そべりながら、ライトは以上の文章をノートに記述した。

 

 予定より早く帰国することになりました。会って話したいことがあります。

親愛なる貴方へ                               カレン

PSこちらで書いた小説も同封しました。よかったら、読んでね。

 

        

        

 

 一八九五年十二月二十八日、パリのカフェの地下「インドの間」で、リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフの初めての一般公開がなされた。兄弟は用事で出席せず、父が取り仕切った。そのちょうど百年後の今日、僕は胸いっぱいの不安を抱えて、スリランカ料理店へ向かっている。寸足らずの足元から、蛍光色の靴下が惨めに光り輝いていた。真平にせせら笑われたこともいまはただ懐かしいだけなんだが。

 書き換えることは容易いだろう。でも人身御供になっている二階の二間続きの片隅で、父の昔のスーツを着込み、拾ったサングラスをかけ、ニット帽を被り、マフラーを巻き、マスクまでする。いかにも怪しい男を滑稽に演じて、新栄のスリランカ料理店に向かったあの冬を回想することにはなんの意味があるかなんて、まだ判らないけど、四葉のクローバー探しのとき庭でみつけたノートの空白は、僕のあのことをしっかり忠実に振り返ってみろと、いっているに違いないようだったのだ。

 家族に勘づかれないように、ドアに入室厳禁の貼り紙をして、二階の窓を伝って降りてきた。帰りのことを考えると暗澹たる心持ちに陥るが、合同上映会でのカレンとの再会を強く念じ、嫌なことを払い除ける。彼女は、来年の四月までは帰国しないはずであったが、妊娠のため、急遽日本に舞い戻った。初めは僕の子ではないだろうなと疑ったが、冷静になれば本人は違う男の名前をいうだろう、と考えた。そして、はっきりカレンの言葉で、映研と音信不通でありながら、この難聴の耳に聞かせてやりたかったんで、不自然甚だしいけど、こんな暴挙にでたんだ。

 合同上映会は、ヘルとハルの声かけで実現した。確か、夏前には企画が持ち上がっていたので、学園祭のあとから引きこもりを続けている僕でも知っていた。きょう開催することは兄に聞いたのだが。

ヘルはN大、ハルはM大の映研に在籍していた。二人は、N市中をそれぞれの愛車のカブに乗って、友人の下宿先や、ロケーション、中古CDショップ、百貨店、カメラショップ、喫茶店、食堂、本屋、動物園、リサイクルショップ、演劇場、古着屋、ビデオレンタルショップ、そして自分たちの住まい、異なったバイト先の映画館などを巡り巡る一方、サークル参加している大学じゃない入学した別別の大学へは、ほとんど足を向けなかった。

 午後の光を浴びて、信号待ちをする僕は、父のトレンチコートを用意しなかったことを寒風にやられるままの状況のなか、とても後悔した。僕は、悪寒に襲われるのを紛らわすため、吹けない口笛の吹き真似をして、意識を外へ押し出そうともした。信号が青に変わり、お笑い芸人養成所の看板を鼻で笑っているうちに、横断歩道を渡り切り、向こう側の歩道をもしかしたら勇ましく映るかもしれない歩き振りで先を急いだが、これも空口笛同様に寒さを紛らわすための行動であった。

 やばい、うじゃうじゃいるぞ、と僕は前方の二軒続きの平屋店舗に群がる大学生たちの顔を瞬時に名前に変換し脳内に浮かべ、後退りして、角に身を隠す。相変わらず、馬鹿やってる連中だな、懲りることを知らない、ブツブツ、唾を地面に落としつつ、独語を繰り出す大袈裟な芝居じみた動作を加え、映画の主人公を演じるかのように、煙草をポケットに手を突っ込み指の間に挟んで取り出す。

 マスクをずらして、箱とともに入っていた、玩具ライターで火を点け、煙草を銜えスパスパ吸った。ザッと見渡したところ、カレンの姿はない。しばらく待てば、入れ替えがあり、動きが活発になり、目立たずに近寄れるだろうと、二本目の煙草にも指をかけた。しかしサングラスが視界を邪魔していると考え、右手で取ってみた。かといってもともとの視力も悪いので、かけていたときも、ほとんど見えていないことをいまさらながら確認しただけだった。

 しょうがないので、サングラスを手早くスーツのポケットにしまい、代わりといっちゃあなんだが、ニット帽を目深に被って両目を隠す。ほったらかしの煙草の灰が限界に達し、ボタッと地面に落ちた。煙草を揉み消し、携帯灰皿に捩り入れ、一向に変化のない怠惰極まるスリランカ料理店の出入口に勇気を振り絞って緊張をおくびにも出さぬよう、もうくだらない映画に飽き飽きしたような馬鹿面を曝した連中どもが、車や女について熱く語り合っている場に最大接近したはいいが、そこは完全に自分のいる場ではなかった。

 映研辞めて正解だな。引き留めてくれたのは、仁の恋人だけだった。彼女は、上海からエアメールを送ってくれ、斜めに曲がった切手がチャーミングで、短文が励ましの優しい筆致であり、とても好感が持てた。そのロープウェイが写った絵葉書はいまいったいどこにあるのか、矢口史靖の紙コップのサインともども貴重な人生の代物のはずなのだが、皆目見当がつかなかった。部屋はゴミの山で精神状態同様、荒れに荒れまくっていたのだ。家宝が紙なのも乙だな、と僕は思ったが、気づけば受付でパンフレットと感想用紙、鉛筆を手渡されていた。まえの男に続いて、上映会場へ向かう合間に、パラパラとパンフレットを見ていると、自分の名前が書いてあった。何故だ、僕は一瞬天を仰ぎ、また手にしたコピー用紙で作られたものを穴の開くほど見詰め直した。こんな映画撮った覚えはない。僕は、偽りの僕が合同上映会に作品を出品している異常さに眩暈がして、その場にうずくまった。

 眩暈が治まったのと同時に、こんどは強力な吐き気を催した。しゃがんだ姿勢のまま体勢を反転させ、戸外に出た。建物の壁に手をかけ、膝を地面に着けた格好でゲロを吐いた。水っぽいゲロで、パンフレットにまで飛び散った。受付の女性が介添えしてくれ、背中を摩ってくれているようだったが、お礼もいえず、しばらく固く目を瞑り、押し寄せてくる悪寒に耐えた。

 大丈夫ですか、受付係が喋った。僕はビクッと反応し、彼女が看護学生だったことを認識した。彼女の名は仮にKとしておこう。Kは、彫りの深い顔をしていて目は海豚みたいに離れてついていた。とても芯が強そうに見え、自己主張をしっかりするタイプだと思う。優柔不断な僕とはまったくの別人格で、年下ながら羨望の眼差しで彼女を捉えている自分を発見したのは、つい最近のことだった。

 そんな彼女の存在をすぐさま察知できなかったなんてふがいない。でもお互いさまだ。相手は判っているのだろうか。二人とも、がらくただ。どうですか、甘い吐息が、うなじを掠めた。しかし異性との触れあいを楽しんでいる余裕はどこにもない。きっと、あいつの仕業だ。夕暮れの焼却炉で、はたまたM大祭まっ最中の白昼の広場で、僕を強打したあの自分そっくりのあいつ。あいつが、また誰のさしがねなのかは判っているが、三度目になる、僕の邪魔をしにやってきたのだ。

 ほとばしる飛沫で汚れたマスクを再度、口まで上げて、僕はここを早く立ち去るのが最も賢明な判断だと踏んだ。Kの心配をよそに、うずくまった体勢から立ち上がる。彼女の問いかけには無言で通して、僕は泣きたくなるのを必死でこらえて、どうにかこうにか取り乱すことだけは避けようと努め、壁沿いを伝って角を曲がった。彼女はなにもいわず、足音を後ろに感じることもなかった。とりあえず無事退散できたと僕はひとまず安堵の息を吐いた。

 会場から少し離れたところに、休むにはちょうどいい公園があったので、そこのベンチに腰かけ、手にしたパンフレットを仔細に眺めだした。どうやら、いまは僕の作品の上映はもう済んでいる時間帯のようだ。なんとも忌忌しい限りだが、上映中止を叫ぶわけにはもういかず、怒りの行き場に数分困っていると、うしろより肩を叩かれた。ビクッと驚きを露わにして振り向くと、サングラスにニット帽を被り、マスクをしたスーツ姿の男がいた。

 ずんぐりむっくりしたこの男は、興奮しまくった様子で、股間も心なしかもっこりした塩梅のようなのだが、速射砲みたいにいいたい放題にまくし立ててはいるけど、まったく意味が汲み取れないのだ。次第にサングラスがずり下がり、マスクの片方の耳にかけていた紐が取れ、素顔を僕にさらけ出す結果になっていった。それは速木源吾そのひとだった。僕は思わず判った時点で爆笑してしまい、相手は涙を浮かべてニヤニヤするだけだった。

 映画、凄くよかった、片言のネイティブ・アメリカンを真似たみたいにようやく聞き取れる言葉で速木はいった。今度、俺の脚本で監督して、続け様に彼は喋り、僕は閉口した。あれは僕が撮ったんじゃありませんと、真実を洩らしたくて仕方なかったが、相手にうんざりしたほうが上回って黙って速木の目を睨みつけた。彼はおびえたように後退りして、距離を取ると、自販機でコーラ買ってくるわと宣言し、公園を横切っていった。

 押し潰されそうな心理状態になり、一刻も早くこの場を立ち去りたいと思った。僕に小さな背中を見せ、自販機に辿り着いた速木を尻目に、ベンチを跳び越え、緑の柵を跨いで梢を突っ切り、公園を脱出した。へ、馬鹿が、貴様の映画なんか誰が撮るもんか、と呪詛の言葉を何度も脳内でがなり立てて、上映会場とは反対方向に歩を進めるしかなかった。だが、このままおめおめと帰宅するには芸がないなと、黙考している次第である。

 ふと、反射的に横へ顔を向けると、おあつらえむきの喫茶店があった。東京旅行の折、入店したことがあるチェーン店だった。僕は財布を出して、帰りの切符代を念のため勘定して、まだまだ金銭的余裕があるのを、確認すると意気揚揚と自動扉のマットレスに足を置き、電子の呼び鈴がささやかに鳴り響くなか、レジまで移動して行列に並び、順番がくるまで長考してブレンドコーヒーとファッションドーナツを注文した。

 二階の隅の禁煙席に陣を構え、マスクをずり下ろし、ニット帽も脱いで、あぶあぶとファッションドーナツを食していると、Kの顔が頭に浮かんだ。僕はカレンの真実を確かめるため、遠い豊田くんだりから、わざわざ異様な変装までして、ひきこもりの自分のスタイルも放棄してはるばるやってきた。しかしここにきて事態は風雲急を告げている。僕の偽物、そしてカレンとKとの比重の逆転。僕は小さく溜息をはくと、食べたものをすべて吐いてしまった。

 喫茶店中の客たちの注目を集め、僕は涙した。しばらくして優しい店員さんが駆けつけてきてくれて、淡緑の布巾で綺麗に汚物を拭いてくれる。ずみまぜん、ありかどうごぜみます、などと、しどろもどろに何度も奇妙な科白を無意味なまでに繰り返した。そうしているうちに、たちまち目の前の世話を焼いてくれている女性店員さんに恋してしまった。カレンやKよりかわいいじゃんか!

 しかしたちどころに己の馬鹿さ加減にげんなりし、そそくさと変装をし直し店を出た。すると軒先に突っ立っていた影に声をかけられた。瞬時にビクつき首を高速で驚く反射で向けてみると、そこには誰あろう速木が満面の笑みで煙草を前歯の間に挟んで歯茎を剥き出しのまま、こちらをまっ直ぐに見据えていた。僕は、さっきのびっくりした感情が、あっという間に恐怖へとすり変わる推移をできるだけ冷静に受け止め、つぎの手の打ちようをあれこれと思案した。

 でも、そんな暇はなかった。危機迫る面貌の彼に腕をガッシと掴まれたのだ。動転して、本来ならば初見の段階で、相手と自分の服装がまったくもって瓜二つであることに、まず驚異を感じなければいけないといえるのだが、このことに対し微塵も疑問視せずに、とにかくいま巻き起こっている、腕に感じる速木の握力と、激しい呼吸に圧倒されて、もうなにも考えられなくなってしまった。

 打開はつぎのように訪れた。煙草を抜き、打ち上げ出る? と速木が唾を飛ばして、いいたくていいたくてしょうがないのを羞恥心からか言葉を発せなくても、勇気を振り絞って勢いでやっといえたかのような具合で僕を鋭い目で串刺しにし、答えはもう決まっているといった風情なのだが、反対に形式的に訊ねてみたともとれる。つまりは、思考の回転は、彼の一声で解かれたのだが、その内容は全然、正確性を欠き、まるで死の恐怖でなにもかも混乱しているといった模様なのだ。

 僕は、何年何月何日何時何分に死ぬんだろう。あたかもそれがいましがた天より決定が下されたかのような大きな絶望感が訪れた。それでも現実はなにも変わらないみたいで、相変わらず速木が鼻息荒く、眼前に迫っている。僕はどうにかしようと、肩を上下させ、腰を回し、足踏みしてみた。速木はつられたようにステップを踏み出し、顎を上げ、鼻歌を交え、踊りだす。僕は笑顔を思い出し、よしいこう、と彼に直言した。きょうは就職活動中の森副がいねえんだよね。ヘルと偶然街で会って、聞いたのさ。まさにいまは天国ってわけさ。そしてやつがいなくなりゃあ永遠の桃源郷さ、と速木はおどけながらいった。かわいそうだが、速木は黒野の変貌ぶりを知らない。

 彼と肩を組み、街を歩いた。身長差が、あるもんだから、でこぼこで、足並み揃わず、がたぴし、ぎくしゃくと、まるでなっていない体勢で、もう二度とくることはないだろうと思っていたスリランカ料理店に着いてしまった。映画はまだやっている時間だよ、入る? と彼は酔っているかのように、いつの間にか煙草を捨てた風で、陽気に下から声をかけてきた。僕はオーバーにうなずく。観る観ると上から返答した。速木は、組んでいた肩を外しバッグよりパンフレットを取り出すと、腕時計と照合し、いまやってるのは、ハルとヘルの合作だなと低くつぶやいた。あの二人付きあってるそうですよ。速木はあけすけなく放言した。僕はこの短くも強烈な発言で、さっきの吐き気が、また押し寄せてきて、その場で三度吐いた。速木の靴にゲロが飛び散ってしまったみたいで、ふらふらなのにまえの焼き写しのように平身低頭謝罪の言葉を反復して、中腰で速木の靴を皺だらけのハンカチで拭いた。

 頭の隅のほうで、受付にKがいて自分を見ているのではないか、あわよくば、熱い視線を寄こしてはくれないかなどと思う、呆れ返る僕もいた。でも、期待なんかしないでせこせこと動いているだけの自分もいて、なんだか、ハルとヘルの肉体関係なんて、もうどこかに飛んでいってしまった。また、優しいKに抱かれるなんていう妄想をし、さらに強化するも、相手が本当のところはどうなのか確かめる勇気は、まったく持ちあわせていなかった。

 だがこんな混乱状態に終止符を打つべく突然現れ出たかのように、見慣れた靴が僕の下げた視線に侵入してきた。薄汚れた青のランニングシューズは、兄の靴だった。僕は釣られて目線を上げた。兄はスタスタと上映会場の入口に向かい、僕はその背中を見た。兄のぼさぼさ頭のまえには、なんとカレンと僕がいた。バイオレットのダウンジャケットをはおった僕は、鼻水を啜りながら不安そうな顔つきで、手にしたバッグのなかをモゾモゾさばくりながら、兄と何事か会話を交わしていた。茶色のダッフルコート姿のカレンも神妙な表情で眉を顰め、頬に手を当て、なにか熟慮しているように見えた。僕は開いた口が塞がらなかった。変装しているとはいえ、兄は僕を無視して偽物の僕と親身になってなにか相談している。僕は泣きそうになった。もう家に帰ろうと思った。踵を返し、追いすがる速木を振り払って僕はニット帽もマスクもかなぐり捨て、足早にその場を離れようとした。しかし、カレンの憤りを含んだサイレンのような呼び声が聞こえた。ちょっと待って、打ち上げいくの? 僕は立ち止まった。背後から肩をむんずと掴まれ、強引に速木と向き直された。うつむき加減に嫌がる僕に彼は、こう宣言した。大葉兄弟は、もうダメだ。これからは、きみだよ。きみが、マルクス教授と戦うんだ! ガルシア君! 

 サングラスを気障に取り払った速木の目は、Kみたいに輝きに満ちていた。Kはライトに寄りそっていた。僕は、驚くほど素直に唐突な黄昏の入れ替わりを受け入れた。そして、カレンに大声で行くよ、と返事をし、彼女のリアクションに満足を得る。さらに、自分はガルシア・マルクス、のちの実物のマルクス教授なんだ、楽しめ! 我が青春! カレンの子は、我が子だ、と興奮して胸のなかでつぶやいた。速木は、また、ニヤニヤ笑っている。

 上機嫌の僕は、投げ捨ててしまった帽子とマスクを、速木の横を素通りして数メートル戻り、しゃがんで拾い、二つを手にして、よっこいしょと立ち上がる。そして、にこやかに近づいてくる速木に、こちらも笑顔で答えると、彼は、あのガソリンスタンド以来だね、と声をかけてきた。それについて思い返す暇もなく、悲鳴とともに背中に衝撃が走った。熱い。大男の存在が、僕と重なって倒れた。背中の異常は何度も鋭利な刃物で刺されまくる感触だった。僕の首に男の冷たい唇が当てられた。ライトか。僕は小さく呻いた。全身が脱力し、南の島の光を浴びているようだ。とてもいい気分だ。僕の指からペンが転がる。

原稿用紙は、まっ赤に染まってゆく。すべての苦しみは、ここから始まる。                                       (跋)

 

 どうだった? 自分で書いたのになんなんだが、意味の判りにくい点が、多多あるけど、だいたいこんな感じでいこうと思う。是非、感想を聞かせてくれ。特撮やアニメじゃあないと出来ないなどの直したい箇所があれば、なんなりと申しつけてくれていい、修正するので。しかし、女に振られたくらいで引きこもるもんじゃあない。まえみたいに映画撮ろうや。つぎは苦手な脚本化してみる。まあ、なんなら禮人がこれを元に、自由に撮ってくれてもいいし。それじゃあな、部会に顔出せよ。

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亀嶋那武