フランスパンがポルトガルパンを犯している様を見ながら、うるさい厄介なものに、ぬくい暗闇からよろよろと手を伸ばした。潜ったまま、あやふやにベルを止めるスイッチを探り、四、五回のトライで、ようやく押し当てた。

 そうするまえに見ていたことはすっかり忘れる、もう残像は消し果てていた。顔をだす。しかし、目をつぶり、カーテンから木もれ日の光が射し、雀がチュンチュンさえずるのをバックに、こんどは核戦争で荒廃した都市をさ迷い歩く、ガンマンのまなざしを見ている。むにゃむにゃと寝返りを打つ。横になりすぎたためか、身体の節節が痛い。

ちょっとー、起きなさいよー、また遅れるわよ、と階下から声がする。薄れている現実界の意識のなか、それがだれだかがおぼろげに像を結びだした。ママだ。そう、たしかにママの声だ。

 また学校か、西日が射すなか、砂塵舞う大地で、ふらふらゆらゆらガンマンの歩く姿態を見て、登校、ホームルーム、体操、授業、放課、給食、掃除、授業、げ、あれあれ、気づくといつもの町の風景。太陽は西に傾いている。あれー夢の続きか。うしろが重い。と思ったら、デイパックを背負っている。服もパジャマじゃない。歩いている。不安げな気持ち。ぐったり疲れ、精気を失っている。石ころばかりを見ている。

 深いまどろみの途中で、想念が混乱を来している。初めはそう思ったが、様子がおかしい。いつもならママがすぐにでも角をはやして、部屋まで怒鳴り込んできて、慌てて起きるのがパターンなのに。時計を確認しようと、またぞろ手を伸ばしても、空振りだ。いつまでも近所の、そう通学路のままだ。

 寝ぼけているんだな。いつものことだ。デイパックのなかには0点の答案用紙が入っている。そんな風に感じる。あれ、まえテスト受けたのいつだっけ? きのうも受けた気がするし、きょう受けた気もする。きょう? さっきまで学校にいたのか、これは帰り途だ。まったくきょうの記憶が曖昧だ。給食食べたっけ。毎日、こんなもんか。むにゃむにゃ。おいら、夢の住人だね。

 カキーンという乾いた金属音。直後に己の名を濁声で叫ぶものがいる。そうかとしているまに、振り返り際、影が落ちてきたと思いきや、衝撃がレンズを砕き、眼底に痛打されるもろい感触。半回転して、ダメージでうしろに倒れ込む。さらに、背負っているものがいくら緩衝になるも、むきだしの岩に後頭部が激突する。ひえー。うぐ。血反吐がでないのがふしぎなくらいだ。薄れる意識のなか、近寄ってくる爆笑の渦とはやしたてられる不快な声に、ここが安眠に値する地上の楽園なんかではなく、憎悪と絶望に満ちた地獄の底だということが、とても素直に首肯されている。全会一致! おまえとおまえとおまえは死刑! 屈辱をかみしめ、熱い痛みと血のほろ苦さを感じて、卒倒しかけたそのままの姿勢で、ぼんやりと閉じられた視界のうち、太陽に目を細める。どこかで鴉が阿呆を嘲るように、無機質な音で鳴いているのが聞こえる。

 死ぬところだった。ゆっくり立ち上がる。周りにはだれもいない。おや? なんだか焦点があわない。視力を完全に失っている。どうしたことか。眼鏡がないんだ。眼鏡、眼鏡と中腰になって両手であたりを探る。あった、あった。ほっと安心してそれを装着すると、あきらかにひん曲がり、あろうことか左のレンズにパッキリと横断線が引かれていた。なんという理不尽、この苦痛と苦杯、いったいどこで憂さを晴らせばいいのやら! 左の視界が暗い。

 あの低能ゴリラに異議申し立てをしたところで、避けられなかったのが悪いと、こちらの運動神経のなさをとりあげて、空き地で野球なんかやっているのは危険な禁止されているものであるのに、その傍若無人の行為に非を認めず、抗弁するに決まっている。それにあの腰巾着のボンボンらも、だれもこちらの味方になってくれることはなく、聖人はどこを探してもいないことだろう。

 つまり泣き寝入り。花に嵐のたとえもあるぞ、さよなら、だけが人生だ。トホホ。いつものことだ。てへへ。帰りましょう。帰りましょう。テンテケテンテケ。そうしましょう。そうしましょう。一路退却。気を取り直して、といきたいところだが、自然うつむいたまま帰路を急ぐ。

 歩幅小さい己のいまだに履いているクックに視点を置いていると、舗装された途に大きな水たまりで、ガードレールとコンクリートブロックが欠けている場所のくぼみがなみなみと満たされていた。

 カラカラに乾いた気候で、いったいいつお湿りがあったか記憶を手繰り寄せようにもなんの扉も開かない。夜のあいだに降ったのだろうか、でも朝の道路状況の引っかかりがなにもない。なにも見ていなかったかの如くに。だが、それにしてもよほどの大嵐じゃないと、こんな風にタプタプと満ちるはずがない。こんなのを見るのは生まれて初めてかもしれない。もしかしたら、なんらかの理由で小規模な地盤沈下を起こしたのかもしれない。

 しかし、追求はここまでで、このあとはもはやさしたる疑念にもならずに考えをやめ、水たまりを迂回するべく、ちょっとした冒険心から、車道にはでずに歩道よりすこし高くなっている石塀の細長くのびる土台に足をかけ、張りつくかっこうの蟹歩きで進んだ。

 つまさきが、クックの縁に当り、手入れしていない足の爪が軽く圧迫される。眼鏡が塀にちょいちょい擦れるも、あごを上げ、なんとかやりすごし、両手でじゃりじゃりする塀とのバランスを取り、じりじりと横滑りして、なんとかことなきを得た。

 ついそれまでのハプニングとは比べものにならないほど、瑣末な出来事であったが、けっこう肝を冷やし、なんだかこんなことでもやりとげた充実感を味わった。

いまでも熱い目頭を押さえ、ほっと胸をなでおろす。あらためて水たまりを一瞥して、通常の歩行を開始する。鴉がまた鳴いている。電柱の天辺に、ダンスするように足を上げ下げして着け、翼をバサバサはためかせている。怪我でもしているのだろうか。そして磔磔と空に飛びたった。亀裂が走った視界で首をうしろに反らせ追っていくが、西日を受けた、滲む光で、ハレーションのようなものを瞬かせているうちに頭上をゆうゆうと越えてしまう。

 ふと目線を下に向けると、カパッという音がして、薄汚い道路のピントがぼやけた。ついに横断線が走っていた左目のレンズが割れて落ちてしまった。慌てて、しゃがみ二つに分解したものを足下から急いで拾う。立ち上がり、仔細に傷の具合を、ためつすがめつ、観察し、飽きたからスモッグのポケットにするりとしのばせた。

 右目だけで意識を集中していると、まえから自動車が走ってきて、ドブンと片輪、車道の水たまりにはまり、あっという間に大きなしぶきが跳ね上がり、第二派までやってきて、全身がずぶ濡れになってしまった。

 したたり落ちる水滴が、だぶだぶに重くなった衣服をおおい、あまりの寒さに昏倒しそうだ。いてもたってもいられないので、デイパックを降ろし、スモッグとトレーナー、シャツを順順にあまりの展開に半笑いになって脱ぐと、雑巾を絞る要領で、一枚ずつねじりにねじって水分をだし切る。

 まず片腕に服を三枚かけていて、重さでプルプル震えているけど、下に着ていたほうから絞るのだが、キツキツにねじふせたものをふさがっている腕の反対側の脇で挟んで、力が入りにくい、曲がった姿勢のまま、最後の一枚であるスモッグまでたどり着くと、固いものがぎゅぎゅっとポケットのなかで悲鳴を上げた。

 半身裸のままの作業中ずっと、斜向かいの一軒家の庭で野良仕事をしているおばさんの視線をずっと感じながら、なんだかひとに見られて高揚した気分で、ドラマのワンシーンのワイルドな俳優のような心境で引っ切りなしの動作を演じているみたいだ。

 さて、それらを着直しても、花冷えして、まだ水分が脱水し切れていないゴワゴワの運動着とスモッグが肌にぴったり張りついている。グリーンの半ズボンは、どうしようもないし、スニーカーの底が靴下に雨水をこれ以上ないくらい染み込ませていた。デイパックを肩にかけ、やけになって走りだす。ジャブジャブと足が鳴る。好きなようにさせておけ。子供は風の子、ピューンピューン。角を曲がったときだった、柔らかい感触が足裏に感じられた。空でも飛ぶのか、宙に舞うのか、なんて妄想逞しくしている暇など与える間は、あっといううちに消し飛んだ。獣の咆哮が聞こえる。振り向くも振り向かないもないままに、全速力で住宅街の坂を転がるように突っ走った。足が交互にはでてこずに、太ももは左右ぶちあたりもどかしく、ジャンプするみたいにリズムが崩れて駆け足を調整していて、もう必死。しかし万事休す、片足を強く噛まれ、うなり声と荒い鼻息に気圧されて、勢いあまりゴミ収集場にダイビングする羽目に。しばらく噛みついて離さず、小動物を捕らえたときみたいに、グイグイ頭を振って引っ張っていたが、動かなくなったものに対し、やがて興奮も冷め、運よく転がっていた肉の骨に目がいき、その強靭な顎を血滴るふくらはぎより放し、恐怖で発語できずにいた哀れで細かく震えだした少年のようやくでた絶叫の嵐におびえたのか数度威嚇のために吠えて、骨をくわえ、そそくさと野良犬は去っていった。

 ネットに戯れ、身体を揺らし泣きじゃくった。なんでだよ、なんでだよ、痛い痛い。もう嫌だ、もう嫌だよ、助けて、だれか、助けて!

 

 

   

 

いつまで、そうしていただろう。通行人は何者も通らず、静かに自動車が数台走り抜けるばかりだった。陽は、とっくに沈んでいる。茫洋とした絶望感がいまだ晴れないでいても、ずっとこうしているわけにはいかない。涙を手の平で拭い、やっとの決意で彼は立ち上がった。右足をびっこし、うつむいて、鼻水を垂らすにまかせて、歩き、悔しさに心が潰れる。

 しかし、悲劇はまだ終わらなかった。街灯や門灯が点き、薄い影がいくつも四方八方に伸びている。ふくらはぎの傷口の血液が靴下に垂れ、水分を十二分に染み込ませている綿の素材は、またたくまに真っ赤になっていった。どれほどの怪我なのか、直視するのがますます恐いので、無視することに。目の機能を半分奪われ、移動の手段も片足取り上げられ、もう早く家に帰ってゆっくり休みたい、いま望むことは、ただそれだけだ。

 いつも通りの我が家に着くはずだった。でも明かりの灯る玄関を見据えて、さあすべて助かると安堵した瞬間、事件は待っていた。電信柱の影が動いたかと警戒した矢先、ベレー帽をかぶった小柄の人間が小走りに近づいてきた。眼鏡が砕け、全身ズブ濡れで、右足に力を入れられないために斜めに立ち、足元を血で汚している少年の前にうつむき加減に立つのは、いじめゴリラの妹である。彼女は異常な少年の風貌にはなんの関心も抱かずにいるような態度で、これ読んでください、と手にしていた封書を両手で添えて差しだしてみせる。

 受け渡しをする段、二人の小指が触れあった。温かく弾力のあるなかに、硬い骨を感じさせて、鮮明に生を開かれた具合に計らずともなった。少女は、ますます顎を引き、顔を赤らめ、つぶらな瞳で、少年をうかがうのが随分恥ずかしいみたいで、揉み手をしてモジモジしている。少年は咄嗟に思った。僕は、彼女と結婚させられるだろう、と。

 どうやら少女は、相対している人間がボロ雑巾なのを、辺りの暗さと羞恥心よりくる視野狭窄とで、碌すっぽ観察していない。数歩後退りして、少女は別れの言葉を小声で吐くと走り去ってしまった。残された少年は、封書を調べるでもなく角をつまむようにして、ブラーンとさせていたが、すぐ濡れているデイパックに無造作にしまい、帰宅が遅くなったため両親の叱責を身構えて、玄関の戸を開けたが、二人は心配していたうえに、ボロボロの少年を見て、親子三人抱きあって、傷を気にかけつつ無事を喜び、安心した少年は事情も話さずワンワン泣いた。失禁しているのに気づいたのは、この後だった。

 けたたましいベルを叩き続ける不快極まりない音がする。何事が起こったか即理解できずに、傷の手当てをしてもらおうと、右足をまえにだすが、なにか得体の知れない力によって遮られた。電話が鳴っているもんだと思い直すころには、自分がいまどこでなにをしていたのかの記憶がまったくないことに気づいた。ただ煩い金属音に似た眠りを妨げる音をうとましく感じる。眠り? 僕は寝ているのか? 冷静になり目覚まし時計を止める。

 閉め切ったカーテンに陽光の筋が走った、いつもの畳敷きの部屋。窓のまえに置かれた学習机と横の背の高い本棚。反対側には押入れ。枕のある方向に出入口のドア。なにも変わりはしない、でも。布団をはね上げ、負傷したふくらはぎを確かめたところ、なんの噛まれた痕も治療したような形跡もない。裸眼なのに思い至り、慌てて枕元の眼鏡をかけて再度確認するが同じ結果だった。おや、レンズが割れておらず、フレームも真っすぐだ。

 きのう砕けて広がった蜘蛛の巣は、そっくり代替品、それはスペアか新品なのかも不明だが、交換されたのか。はたまた修理を朝までに完了したのか。形状はずっと愛用していたものと同型。腑に落ちぬまま、布団を畳み、階下へ降りていった。足は全然痛まない。

 台所で忙しく立ち働くママをつかまえて、疑問に抱いていることを一気呵成にまくし立てる。訊ねられたママは、振り向くことなく、みそ汁に麩を入れて、ネギを入れて、かきまぜているだけで、なんの返答もよこさない。

 意思疎通がうまくいかないため地団駄を踏み、ママの白いエプロンの裾をひっぱりもどかしく思うが、相手はまったく反応してくれなかった。

 しょうがないので、ダイニングテーブルで朝刊を広げているパパに標的を変えようと、またママにいっていた通りのことを反復している馬鹿らしさに泣けてきそうだが、なんとかこらえて、どうにか心のモヤモヤを払拭しようと頑張る。

 夢でも見たんだの一点張りは、迷妄する少年にはあまりに無情だった。わめきたてはじきにおさまり、仏頂面になった少年は、静かに椅子を引き、決まっている席へ着いた。熱熱のみそ汁とハムエッグを載せたトーストをつまらなそうに消化していく。いつのまにこんな和洋折衷なメニューになったんだろう。そういえばうちで猫を飼っていなかったかな。内面では変化の富む動きをしていたが、見た目には、年老いた山羊のような印象を与えていた。ゆっくり顎を上下させ食物を噛み砕き、双眸は虚ろで天を眺めやり、屁を何発もこく。さらにダボダボのパジャマの袖がみそ汁の器に浸されていた。隣席のパパはさっさと食事をすまして陽気にでかけていく。ママは茶の間でテレビを観ている。少年の愚鈍さはもはや覆しようのない日常の風景と化してしまっているかの如く、なんの突っ込みも入らずにいた。彼の生き地獄は普遍的な個性として揺るぎない場所を得ているのか。

 平らげた朝食の残骸が並ぶ盆を持ち立ち上がると、流しの水を張った桶に食器を沈めて、パン屑だらけの盆を洗い、もとあったところへ戻した。洗面所で口の中をブラシでゴシゴシして水で漱ぐ、外着に着替え、いつもなら準備して階下に携行してくるのだが、きょうは慌てていたので、二階の自室にデイパックを取りにいった。目的のものは机の上に置いてあった。本日の授業を時間割りで確認すると、きのうのままになっているデイパックの中身から使わない教科書やノートをだし始める。すると水に濡れて乾いたような、しわくちゃの封筒が入っているのに気づいた。

 初めは、なんだか合点がいかなかったが、それはきのうあの人物から受け取った手紙であることに思い至る。やはり夢なんかじゃなくて現実だったんだ。焦る手指を必死でなだめて、ゆっくり深呼吸をし、封印を解く。冒頭の一句は、邪魔者は消えました、とあり、なんのことだか皆目検討がつかない。理解不能の不快さで、続きを読もうにも、インクがすべて滲んで判読できない有様だった。

 混乱して、その場に座り込む。何故、と冷静さを取り戻そうと懸命に己の推理力を駆使してこの理不尽な状況を打開する姿勢と、答えようのない事態なのは重重承知だという、なんとも達観した自我が働いているから大丈夫じゃないかと安心する精神を、横目で、水にたわんでない教科書を観察しながら、強い意志のもとに二重写しにして思考は回り始めた。

 だが残念なことに思考は空転するばかりで意力だけが萎み、虚無だけが膨らみ、志向性と楽観への意志が、悲劇の気分に駆逐された。階下でママの呼ぶ声が何度もする。知らない間に、多くの時が流れたようだ。手にしたままだった手紙を折り曲げて、机上の封筒の中に戻した。虚しい気持ちで、薄ら笑いを浮かべ、デイパックの準備をすまし、無造作に置かれている例のものをひきだしにしまった。

 荷物を背負い、階段を下り、とぼとぼうつむいて玄関までの廊下を歩き、腰を降ろし、運動靴を履いたところで、背後に気配を感じていたママに聞こえるか聞こえないかほどの蚊の鳴く声で、学校いきたくないと勝手に口が動いてしまった。泣こうとしたが無理だったので、自分でもびっくりするくらいの哀れな悲痛の叫びでママを近寄らせると、頭を抱え土間を睨んだ。頭が痛いの? 風邪、きのう雨で濡れたのがいけなかったかしら、雨、きのうは雨だった! でも違う雨は上がっていたよ、下校は降ってなかった、濡れたのは水たまりの水がかかったんだよ、あらやだ雨はあんなに降ってたじゃないの、傘をいつも忘れるんだから、馬鹿ねえ。顔色悪いわね、きょうは休みなさい。熱があるか調べるわよ、さっ、二階で寝てなさい。体温計とってくるから。

 これ以降、夏休みが明けても少年は通学しなかった。自室に籠り、ノートに漫画を書いたり、鼻糞をほじったり、輪ゴムで遊んだりしていたが、もっとも熱中したのはビデオ鑑賞だった。

 狭苦しい自室に、いままで居間にあったテレビとビデオデッキを入れ、ヘッドホンなどのAV環境を整えたのも、すべて本棚の奥に押しやられていたビデオを偶然発見したからだ。このビデオは入手経路がなんであるかの具体的な記憶はまったくなかった。ただ表面のラベルに確かに自筆の自分の名が書かれていた。当初はおそらくパパが、少年が子供のころを撮ったビデオだろうと考えていた。

 まずは両親のいない昼に居間で観た。黒光りする投入口にビデオをくわえさせ、自動再生されたものは、もくもくした白煙に覆われ、チャプチャプ水音が聞こえるばかりだった。それでも少年は否応のない官能的な興奮を覚えた。既視感に襲われつつも、次第に明瞭さが増していく展開に、いつしか疑いは吹っ飛び、怪しげな世界に魅了される。

 音程の少しずれた鼻歌が、なにも身につけていない露わな細いかいなの湯を浴びる緩慢な振りに、湯気が押しのけられて、徐徐に上半身の裸像が拝める浴槽のショットにかぶされてゆく。もちろん顔も認識できる。顔だけがはっきりとしているといってもいい。知らない女の子だ。鼻息で液晶画面に曇りが生じるほど近づき、眼鏡越しの焦点も狂ってしまう。股間の血流が激するといった類の興奮ではない。脳が目覚めに目覚め、澄み切った朝の冷気に内面の水平線までパンフォーカスが利いてしまうみたいな感覚だった。映像自体は顔を接近させようが、しまいが終わりまで鑑賞してもピンボケのソフトフォーカスまがいのどこか現実感を欠いた連続でしかないのだが。兎にも角にも、アングルは多種多様だけど、ずっと少女の入浴シーンで占められた正味三分ほどの作品である。これを飽きもせず、自室に籠って毎日欠かさず何十回と繰り返し再生し続けた。主に深夜に観た。ヘッドホンを嵌め、布団で自身とテレビを覆い、カマクラのようにして視聴を、リモコンを握りしめて、眠くなるときまで続行するのだ。

 そんな無意味さを贅沢に浪費する生活を送っていたある日、いつもみたいに盆に載った夕餉は、ドアを隔てたあちら側に置いてもらい、運んできたママが一言声をかけ立ち去るとき、常套句のあと間をしばらく空けて、隣の木造アパートに住んでいる、このまえのずぶ濡れになって帰宅した日に少年を捜すのに協力もしてくれたという、浪人時代のうちより知っている大学生にきのう偶然会い、世間話をするうちに、勉強が滞っている少年の家庭教師を頼んでみたことを打ち明けた。それを聞いて少年は激怒した。なんで他人なんかに自分の恥ずかしい現状をこちらから告白せねばならないのか理解できなかったのだ。

 コンコンとママがノックして、室内に入った。先導される格好で目の前の動きを模倣する少年は椅子にかける。ママが大机を挟んだ相手に静かに語りだした。なんの前兆もなく急に暴れたり、深夜外出して明け方帰ってきたり、ウイスキーや煙草を嗜好したり、話しながらママはハンドバッグを開きハンカチを取りだし震える声を落ち着かせようと、必死にハンカチで鼻下を押さえた。声が聞こえるっていうんです。死ねって。それで気が狂いそうになって情緒不安定になるみたいなんです。治りますか? 一度入院してみましょう。早期治療に限りますので。いい? 少年はただうなずいた。

 寝覚めの悪い夢を見た。シンシンと冷え込む夜を跨ぎ、まだ寒さ残る雀鳴く朝のベッドのなかで、上体だけ起き上がってじっとしている。背に冷気が忍び寄るが、どうもここをでたくない気がして、ついに日常に萎えたかと現状を重く受け止めた。

 喉が日照り続きの作物の枯れる姿を脳裏に浮かばすほど、カラカラに乾いているが、この求めはどこまでいっても我慢できる範囲のものだった。部屋の湿度が保たれているのであろう。ベッドを取り囲むカーテンを開く気力すらいまだなく、まかりまちがっても自発的に水を汲みにいく必要も感じられない。外部のなんらかのアクションを得るしか打開される可能性は皆無だ。周囲には鼾の輪唱が展開されているだけだが。

 朝の光が背中に当たり、にわかに膠着状態が緩む。窓際の住人が窓のカーテンを開けたようだ。喧騒が鳴り響く。後ろでは鎧に身を固め、剣と盾を持った中世ヨーロッパの騎士が異教徒たちと戦闘している。横ではハープを爪弾く吟遊詩人。血湧き肉踊る世界。良い子ぶった児童が溺れる魔の世界。銃を構えたガンマンが、宿屋のまえで、悪徳保安官と町娘たちが見守るなか、決闘をする。

 ほどなくして高い声で生彩に起床を促す女性たちが入ってくる。カーテンをフライングで開けてしまった窓際の男性を闖入者はたしなめた。彼女たちは、朝の挨拶と光をもたらすカーテン開けが生業なのだ。その仕事を取り上げられたわけだ。怒られた男性は無言のままである。少年はなんだか彼のことが不憫に思えた。彼と話したことは何回かあったのだ。ひどい幻聴に悩まされているそうだが、好きな漫画について語りあった。こんど面会のとき、ママに家の漫画を持ってきてもらおう。それを彼に読んでもらいたい。

 男性は尖った鼻と耳をしており、額が広く、目は吊り上がって黒目がちで、全体として魔導士のような神秘性を湛えている。さらに彼はそんな印象を増幅するかの如く、いつもユダヤ教徒の祈りに使用する帽子みたいなのをかぶっていた。また、足が悪いらしく、ステッキの介助も必要とする。彼は陽光の渦中にまどろんでいるのか、冬の枯木に囲まれた東窓の墓地のほうを向いている。まだ昼食には早い時間帯の食堂で、彼が指定席に座っているのを少年は背後で観察しているのだ。

 大きな食堂には少年と彼しかいなかった。しずしずとスリッパを滑らして、少年は彼に声をかけるべく近づいていく。彼の横につけ、椅子の脇に斜めになって立てかけてある黒いステッキの頭に象られた星を凝視した。おかしいな、彼はボソリとだれにいうのでもないといった風に喋った。おかしい。少年はなんのことやらさっぱり判らないので、パチクリと眼前の景色を見やり、墓地になにか不審な点でもあるのかと、眺め回した。

 おかしいって、どこが、少年はまったく検討がつかないのでもどかしくなって、もっと月並みな呼びかけで話を始めるつもりで、間抜けな質問をすることが少少癪に障っても訊ねずにはいられなかった。時差ボケしないんだ、僕だけ、お母さんも弟もするのに。少年はてっきり眺めている風景のことをいっているもんだと思い込んでいたのでびっくりしてしまい、不快な気持ちにまでなってしまった。あと、アナウンサー、てどうなんだろう、与えられた原稿を読むだけ、それって意味あるのかな。

 近づいたことを激しく後悔したのと同時に不快な気持ちは怒りへと転化した。くだらないどうでもいい馬鹿じゃないの。嘲りの言葉がいくつも頭の上に浮かび破裂する少年をよそに彼は立ち上がった。コーヒー飲むかい。またもや予想外の展開で、少年は、またまた面食らってしまった。お茶飲んでるんで、少年は確かに手に湯飲みを持ち、そこには薄いお茶がまだ残っている。そんなの捨てちゃえよ。

 少年は、唯唯諾諾でステッキを持つ彼が、何食わぬ顔をして先に歩きだした。廊下を渡り、広間の横すぐに位置するベッドが六床並んだ部屋に入った。食堂で少年がお茶を流し台に捨てていたとき、隣のドリンクマシーンで白湯を自分のコップに満たたせていた彼は、少年の湯飲みにインスタントコーヒーのフィルターをつけると、そこにコップの白湯を注いだ。広間のソファで飲んで、少年の胃が痛くなる不安は消えていた。

 飲み干した余韻に興じていると、彼は少年にテントウ虫のデザインが施された漫画本を差しだし、受け取ってくれるよう願った。少年は入院中も家の漫画を持ち込み元気があれば読んでいたし、テレビアニメも欠かさず視聴していたほどで、この手の文化には詳しい自信があった。でも彼が渡した漫画はまったく知らない代物だった。彼のまえですぐ奥付けを確認すると、かなり古いものだと判った。それを裏づけるかのように、カバーもないし、いかにも時代を感じさせる。広間では、数人の男女がそれぞれ穏やかな顔で過ごしていた。

 翌日、彼の姿はなかった。少年がベッドで昨日渡された漫画本を読んでいる間に、退院していたのだ。昼食のとき、彼が指定席にいないことを知り、あとでひとに訊いて判った。その後、少年は以前より増して寡黙さを貫き通す。投薬治療も三ヶ月で成果がでて、もう幻聴は聞こえなくなった。三月、少年は退院する。

 

 

   

 

病院内で刈ったこざっぱりとした頭髪で、口笛を吹き、早春の街路を眼鏡のフレーム調整のため大型量販店へ向かった。級友のだれかにでくわすことをひどく恐れていたが、夜の九時を回っているので、塾帰りの児童を除けば、この時間帯にほっつき歩いている知り合いはいまいとの判断で勇気を持って外出した。なにしろ入院中というもの、風を感じられたのは数日しかなかったのだから。深夜徘徊していたころの衝動は薬で抑えられているにしろ、ありあまった体力の発散が必要なんだ。

 主治医には、軽度の薬を処方したとの説明を受けていたのだが、まったくその通りで、通常の生活を送られている。近過去を振り返れば、いたく順調に回復の軌道を描いているが、いかんせん、このままの流れで復学するのだけはどうしても嫌だった。もう学校のあんな連中と机を並べてお勉強ごっこをするのは、はらわた煮えくり返るほど抵抗感が逆巻いているのだ。

 あーやだやだ。考えただけでも死にたくなるね。電柱のLEDライトが辺りを照らす、曲がりくねった住宅街を抜けて、見晴らしのいい高台を望む。好きな場所だ。ゴミゴミした人工物を見下ろして、錆だらけのガードレールをガシッと掴む。何気なく横を向くと、あれ? 坂道を下った道路に光が躍り、近づいてくる。自転車の灯火だ。次第に立ち漕ぎをする男の姿が鮮明に浮き上がった。隣のアパートに間借りしている大学生、間違いなく、そのひとだ。

 ヒーヒー喘ぐ大学生は、こちらにようやく気づいた具合で、笑顔を見せ、自転車を止める。どのくらい振りなのか判然としないまま雑談をしているうちに、どうしても質問したい事柄が浮かんでいた。空談は途切れ途切れで、現状が外部に洩れるのを警戒していたのも直に会ってしまうと素直になってしまったのだが、お互いの近況報告や目的地などのたわいない進行のなかで、隙をみて切りだすタイミングを計ってはみたものの、思いっきりのよい発話に至らず、いい加減なことばかりが口をつく。結局、喋らないまま、社交辞令を繰り広げて別れるしかなかった。

 それからというもの、心ここにあらずの意気消沈した毎日を過ごしていた。家では中毒症状をきたしたのでインターネットは解約されていた。だから図書館のネットで大学生に質問したかったことを自力で調べようかとも思案するが、平日の日中は目立つし、ほかは同級生に会う頻度が高いので、無理だった。ケータイを買ってもらってネットに接続しようかとも画策しても親に無碍に断わられた。パパとママに訊くことも考えて、己の秘部に関わることなので自重せざるをえないと思ったが、勇気をだして訊くと知らないのだそうだ。パパが、嘘を吐いているかもしれなかったけど。ネットカフェに行くお金も、入院まえ小遣いで酒や煙草を買っていた失態が響き与えられておらず盗もうにも金庫に財産は保管され手だしできない。しょうがないので無銭飲食をする。夜、近所のネットカフェに素知らぬ顔で入店し、案内されたブースに陣取り、病院でもらった漫画本のタイトルを検索した。何万件かはヒットしたようだが、漫画のタイトルとしての情報は得られず、作者名も右に同じで、メロンクリームソーダをやけ喰いして終わってしまった。家に電話してもらい、呆れている店員と話しをつけ、少年はすごすごと独り帰宅した。

 悶悶とした数日を経て、再び、振り絞った勇気で、ママ、僕、勉強のいままでの遅れを取り戻したい、だから家庭教師を頼みたいんだ、と食前のドアを隔てた関係でかけあってみた。反応はすこぶるいいだろうと内心優等生ぶった己の発言に吐き気を催していながらも推量していた通りに運んだ。毎週金曜日午後二時に隣の大学生の下宿先で勉強することが決まった。平日の昼だったが、すぐ近くなので人目につかないと判断し了承した。

 真面目に学ぶ気は、さらさらない。漫画好きの大学生に、例の謎な本の正体を暴いてほしいだけだ。古い本っていっても戦中戦後の漫画ではない。大学生の知っている可能性は大いに期待できるはずだ。指導当日を控え、予習なんかせずに、もらった漫画の同じページを舐め回すように凝視し続ける。たまんない、たまんないなあ。けれど大いなる不安の種も去来していてその芽は、いまにも開きそうで、恐ろしいばかりだ。しかしそれもこれもこの本の真相を究明しないことには埒が明かない。ちなみに、本をくれた当人に先生を通して、連絡してみようともしたが、患者の個人情報の開示や病院関係者の介入は固く禁じられているとのことだった。

 そしてついに金曜日の二時、デイパックにノート、筆記用具などと、例の漫画本を詰め込んで、安アパートの玄関前に立ち、ノックをする。すぐに牛乳瓶の底のような眼鏡と無精髭、ボサボサの頭髪の冴えない大学生がジャージー姿で応答した。

 いきなり本題を突きつけるわけにはいかないので、漢字の書き取りテストを受けることに始まり、まずは現在の学力レベルを知るために用意された五教科のオリジナル試験が立て続けに執り行なわれた。ほとんどが空欄で埋め尽くされている。そんな意味のない答案用紙を大学生は、真剣な眼差しで採点していった。この間、持ってきたお菓子をパクつき水筒のお茶を飲んでいると、速くも赤ペンのチェックがまぶしい上に、0点の文字五つが綺麗に並んだ。

 教科書の類は昔のも含め、大学生に事前に準備をするとして預けられていた。そこからテストを作成したらしいが、すべて間違っていたので、大学生は今後の指導で頭を抱えてしまうんじゃないかと勝手に不安視していたら、彼は毅然とした態度で、将来、教師志望なのかは判らないが、教育熱心な父親のような優しい口調のなかに厳しさが滲みでる感じで、来週までやっておく課題をいくつかノートに書きだし説明を始める。

 でも知りたい欲求は、落胆する心を突き上げた。これネットで調べて情報がなにもないんだ。だから多分、同人誌なんだと思うんだけど、大学の漫研とか映研で、この漫画を映像化したものがあるんじゃないかと、ちょっと気になるというか、実はその未編集の断片を持っていて、その実作者のひとに会って訊きたいと思っていることがあって。自己内で混乱している本当の疑いは秘め、自分が狂っていておかしいんだと決めつけていたことが、なにかの間違いであってくれと、一縷の望みを託す。ああ、僕が漫研だって、まえに話したから訊くんだね。うちの大学なの? 出版元はふざけててよく判らない、でも近所の大学だと思うんです。そう、ほとんど幽霊部員みたいなもんだけど、僕もまがいなりにも漫研ではあるから。けっこう古いみたいだね、現役じゃなさそうだ、でも判った、貸してくれる、それ、一応みんなやOB、OGに当たってみるよ、あまり期待しないで待ってて。

 ビデオデッキがあるのを確認して、次の金曜日にまた来ることを約束し、教科書を持ち帰ったけど、七日間まったく課題に取り組まずにダラダラと過ごした。まだまだ春めくことには至らずに寒い日と比較的温暖な日が交互にくるものかと思いきや、なんだかポカポカ暖かく、常春の国のようであったが、だれも変だとは感じていないようだった。

 遅刻していったが、一週間後の大学生は開口一番に、玄関先で、漫画のことは大していい情報は得られなかった旨を明かした。残念な顔をした少年の肩を持ち、大学生はいたわるように彼を室内に導いた。あれがうちの大学で創られたかは判らなかった。でもコミケで売っている同人誌じゃあないかってみんないっていて、僕も同意見、でもだれも知らない漫画だったからパロディじゃなくて、オリジナル漫画じゃないかな、それで映研にも訊いてみたけどこっちも判らなかったんだ、と滔滔と語ってきた大学生の台詞に、少年はものすごい勢いで食らいついた。

 あれは、やっぱりアニメなんだ! 少年はひどく興奮し、立ったまま落ち着かない様子で大学生にとても不安な視線を寄せる。あれってなに? 大学生はうろたえるわけにはいかないと冷静な姿勢を崩さず、問い返した。ビデオ、未編集の断片みたいなの、まえ説明したよね! 少年は大学生の腕に手をやり、揺さ振るようにしていった。大学生は合点した風で、それ、いま持ってるの? もしかして、アニメ研の作品かどうかってことなの、という。

 確かめたいと思って持ってきたんだ、と少年は自分を奮い起こすみたいに低い声をだしてデイパックを覗いて、ビデオを緊張しているのがあからさまに判る振る舞いで手にした。だれにも存在を知られたくない神聖な品物ではあるが、真実をすべて明らかにして知りたい欲求と、このまま秘匿したい二律背反に襲われてきのうはなかなか寝つけなかった。でもいま感じている疑いが錯覚ではなくみなに自明な解なんだということを大学生に観てもらって立証したい気持ちが上回り持参してきた。

 しかしここにきて、まだ決心がつかずにいるのか、腰が引けた具合に、大学生に渡す段でもおっかなびっくりの体で、畳敷きの上のカーペットにカチンコチンになって正座し、視聴準備を恐ろしく淡淡とこなしていく大学生を直視しているのだ。戻られるのなら、戻りたい。一人で膝を抱えて震えてやり過ごし、自己充足で満たされていたい。謎をいま解き明かすのはもうやめて、夢の国で妖精と戯れ、草花を愛でて、生涯を無駄に生きて、ひっそり亡くなろう。

 だが現実はちっぽけな自意識なんて踏み潰して前に進むだけなのだ。大学生の背中越しに、もくもくとした蒸気の映像を観るのと同期で、下手な鼻歌が室内に谺した。湯煙が邪魔でなにが映っているか判らないよ、と彼はいう。次第に顔が見えます、と少年は間髪入れずに応じた。棒立ちの格好を胡座に変えて、大学生は、なになに、これ盗撮じゃん、風呂場の、変なもの観させないでよ、と口調を荒めて振り返り、少年を睨みつけた。

 くだらないのはもうやめにして、さあ勉強するよ、と彼は立ち上がりかけたが、少年は絶叫して顔のアップ画面に切り変わったのを示唆した。なになに、大学生は圧倒されて、映像をまじまじと眺めた。子供じゃないか! 幼児ポルノは犯罪だよ! この顔に見覚えはありませんか! 少年は正座からピョンと浮き立ってつま先で着地していった。なんなの一体、知らない娘だよ、どこで手に入れたんだよ、ほんとうにもうしまいだ、消すよ。

 リモコンを手にして、大学生はテレビの電源を切ってしまった。少年は腹の底より怒りを噴出させんばかりに大声で、やめろ! と怒鳴る、大学生は少年を無視し、机の前で国語の教材をめくって、さあ、座って、と少年を促す。いま観たのなんだと思います? 少年は攻撃的な態度を表明させるかのような立った姿勢で顎を突き上げながら彼に質問を浴びせかけた。なにって出来の悪いアダルトビデオだろ、いかにもバカな学生が創るような代物だな。

 半ば呆れ口調で喋り、鋭い無言の視線でしばし少年を見つめた彼は、少年の異変に驚いた。少年は、うつむきケタケタ笑い始めたのだ。これだ、これなんだ、と手近に置いてあった同人誌を掴むが早いか、天啓を受けた賢者みたいな上の空の顔を大学生に向け、アダルトビデオ確かに、それはもちろん実写ですよね、といった。大学生は、いまだ引きずる少年の話に表情を変え、いらだちを隠さず、乱暴な口振りで、あたりまえでしょ、とまさに少年がてぐすねひいて待っていた言葉を吐いた。

 てことは、同人誌のこのカットは、どう説明するんです? 少年は意地悪くいったが、相手が判るように丁寧に自分側から見て逆さに向きを転じさせ、恭しく大学生のほうへ近寄った。へ、ただの子供だろ、だれかに似てませんか! はあ、続け様になんのつもりだよ、変な質問ばかりして! いい加減にしろよ、いいたいことがあればちゃんと説明してみろよ! 大学生は青筋を立て抗弁した。

 少年は、ひるむ様子もなく、同人誌を開いたところで彼に渡して、コクリとうなずくと、畳に置いてあるリモコンを手にして、消えていたテレビとビデオのスイッチを点ける。そして巻き戻しをして湯煙のなか、大写しになった少女の顔で一時停止させた。大学生は、依然として不機嫌で苦虫を噛み潰したような表情をしている。映像も碌すっぽ観ていない。少年は声を思いっきり張り上げて、宣言するみたいに言葉を発する。ビデオの映像と同人誌の絵が、まったく同じなんですよ! 

 あっけにとられたような大学生は、言葉の意味が判らず、どうにか理解したい欲求が湧いたんだろう、画面を真剣に注視し、持っている同人誌にも視線を落として、お互いに見比べる具合に首を上下運動させた。少年はそれをさぞ満足した風にうかがうと、大学生の隣に仰仰しく座る。コーヒーでも淹れましょうか! 少年は喜喜として笑った。特撮だ、いや、ただの劇画だ、と知恵熱をださんばかりに硬直し目を充血させた大学生が掠れた声を絞りだしていった。

 リアルに写生されているだけなんだ! 彼は泣き声みたいに哀切な口振りで続け様に吠える。ちがうね、急に大人びたようになって少年はピシャリと大学生の意見を厳しく即座に否定。アニメなんだよ、両者とも日当たりの悪い薄汚い六畳間で光るテレビの静止画像を眺めて、しばし沈黙のときを過ごした。あれがアニメなのに、実写だと思い違いをしていた自分たちのこの世界も、すなわち同じアニメだということ、少年は天井を見上げていった。

 

 

   

 

 その後、コーヒーだけ飲んで学習指導はしないで二人は別れた。どこかであきらめるほどに自覚していることを必死で陳腐な常識によって括っていた懸案が大学生との遣り取りでもろくも瓦解して、なんだか清清しい心持だった。きょうから自室に閉じこもった生活はやめて、家族と食事を囲もうと少年は思い行動に移した。でもそうしているころには、この世界の真実を理解できても、あの娘が、だれなのかは判らないでいるのはつらかった。

 特別に飾るわけでも、他人行儀でもあるのでもない、かつての通りの食事を無事終えて、家族の一人をひさしぶりに演じたのでなんだか疲れてしまい、居間でテレビを観てさらに父母にサービスをしようかとも考えを巡らせてはいたのだが、食後すぐ自室に戻った。

 虚しさは、とどまることを知らずに、少年の全存在を飲み込もうとしている。どうしてでも死にたくなった。

 閉め切ったカーテンのあちら側に風が当たり、窓が音を立たせたかと思うと、ポツポツした雨音の前兆のないザーザー降りの大雨の響きが急に室内で体育座りをしている少年の耳に届けられた。なんだか冷えてきたので階下にいって、ママに上着をだしてもらってはおった。そして散歩にいってくるとなぜだかあまり考えなくいってしまっていた。時計は七時を指している。ママは少し躊躇したが、いまは雨がひどいから小降りになるのを待っていきなさいね、と注意を促し許してくれた。数分後、雨はシトシトとその勢いを弱めた。

 傘を持って外にでても憂鬱さは回復せず、息苦しいばかりだった。耳栓をしたように知覚能力が著しく奪われ、さきほど消化した夕飯を吐いてしまいそうなほどつらい身体をなんとか引っ張って無理矢理に意味もなく街路を歩き回る。児童公園を三周したところで我に返り、近くの高層マンションに吸い込まれていった。飛び降りるためだ。投身自殺か、へっ、傑作だ。

 だが最上階まで登ったはいいが、階段の塀が想像していたよりも高く飛び越えられず仕方なく引き揚げた。また傘を差して、降り止まない雨のなか、今度はコンビニエンスストアへ向かった。迷いなくカッターナイフの売り場までくると、最も大きいのを手にして、閉じた傘の隙間にストンと落とす。そのまま傘を開かずに店から全速力で駆けだす。角を曲がり、ビルの間に隠れると、商品の包装をモタモタしながら取り外し、深呼吸をして、手首に刃を当てた。血管が硬い。駄目だ。

 カッターをパンツのポケットにしまうと、濡れた頭髪になんらかまうことなく再度、傘を広げ、公園へ向かった。だれもいない陰気な夜の公園の公衆便所に入り、個室トイレの鍵を閉め便器に座り頭を抱えた。毛髪の水分が指に滴り、幾筋も頬を伝う、上着を脱ぎ、扉の上についているフックに両袖を縛ってワッカにした服の襟元をかけた。緩い輪のなかに首を通し、甘い嘆息を吐く。

 腰を落とし、首にすべての体重をかけた。真っ暗な世界で、自分の名前が呼ばれた。いや呼ばれたんじゃない、自分の名前を名乗ったんだ。上着が裂け、尻餅をつき、少年は頭を何度もグラグラ激しく揺らし、その異常な痙攣状態がまるで理解できずに、繰り言をいってうろたえるしかなかった。股が開かれ、お小水をこぼしたが、揺れの治まった頭部のダメージは、なんの痛さの感覚もなくて、正常そのものに思えた。首がしめつけられるような感じもない。

 自慰行為を終えたときみたいに、そそくさと身繕いをすると、個室トイレをでて、鏡を見たけど暗いからか自分の身なりを確認することができなく不安であったが、無事にまっすぐ家に帰った。風呂に入り、何ごともなかったように、いつも通りに寝た。なんで自殺なんかしようと思ったんだろう、少年は安心しきった面持ちで、朝方のまどろみのなか、そう述懐した。けど、急に血が凍ったみたいに身体の異変が生じだした。血流が止まり、手足のさきの感覚が消えてしまうとさえ思える、追い詰められた症状を来している。

 救急車を呼ぼうにも、大事にしたくない羞恥心が上回って自重した。しかしこれが異常事態なのは間違いない。冷凍人間になり死を迎えてしまうような切羽詰った際。布団をでるのもやっとだったが、なんとか這いでて台所まで降りていった。水をコップ一杯飲む。素足を椅子に座って観察すると、なんの変化も見受けられなかった。寝ている姿勢よりかは、身体は痛くない。ひたすら恐かった。どんな病が自分を侵しているのか、想像もできない。

 この世界に死は、あるんだろうか。壊れたものも怪我も病気もいつのまにかなおる。いったい、この苦しみの源泉はなんなのか。命を粗末に使った報いだろうか。あの娘に会えないで死に絶えてしまうのか。でもどうせ彼女は虚構だ、自分もだけど。そんなものに尊い命の価値なんかあるのか。ただ毎日が虚しく続いていくだけ。いつトイレでちゃんと用を足した、まえはいつ風呂に入った、きのうなに食べた、いま何年の何月の何日なんだ! まったく判らんではないか! 若年性健忘症じゃないんだぞ!

 いつのまにか外にボーダーのパジャマで飛びだした。郵便受けの朝刊できょうの日付を調べようとしたらどこにも載っていなかった。早朝に活動をする様様なひとたちを尻目に繁華街に向けて猛突進していく。鼻息荒く眼鏡をかけ忘れて、さらに裸足でもあるといった無防備で投げやりな焦燥感に満たされた軽率すぎる行動。工場の健康的な機械音が心を鼓舞してやまない。みなに祝福を伝えたい。きみたちは、素晴らしいひとたちだ、ありがとう! 国道にでて、北に進路をとった。グッドモーニング! 信号待ちしている白人男性二人組みに挨拶した。

 道路沿いのデパートで、彼女との結婚指輪を買いたかったが、もちろん財布などは持ち合わせていない。強盗しようともしたが、下見だけでもいいと駐車場を横切って店内に入っていく寸前に、そもそもまだ開店していないし、白いラインから自分は離れるわけにはいかないとの指令が下った。そうか、そうか、まずは駅前か、土地開発の件でね、いきゆく人たちに、一人ずつ挨拶をかわして先へ急いだ。

 あのときは、ほんとうに大変だった。いくら考えてもどう打開するのが妥当であったかまったく名案が浮かばない。いまベッドのなかで回想していられるのが奇跡のようだ。駅前に着くなり、地上げされた区画をかぎつけ、お祓いのために、おはようございますと連呼して何度も右手を頭のまえで横に振った。会議に遅れそうな若い男が、向うから走ってきてすれ違った。途端にうつむいて銀行の入口に並んでいる空のペットボトルを歩きながら見て帰路を急ぐ。もう白線に従わなくていい。

 しばらくすると紅茶を飲みたい強迫観念にかかり、お金を持っていないが、どうにか頼み込んで頂こうと、ファーストフード店にいったが、なんのためらいもなく断わられたので怒り心頭に発し、レジスターを引っくり返してやった。自転車泥棒をしてその場を迅速に立ち去り、同じ国道沿いのドーナツ店でも再度無料で紅茶を分けてもらおうとするも、やはり断わられたのだが、テーブル席の客が気前よく恵んでくれた。あなたは必ず天国へいけますよ、と軽口を叩いた。

 三杯紅茶を飲まないといけない、朝刊の広告で受けた天啓を実践すべく今度はゆきつけだったレンタルビデオ店を覗いた。初見の店員に自販機代をせびったがまたもや断られた。失意の心境で駐車場に停めてあったRV車の屋根によじ登り、社員寮との塀を越えて細道を駆けだし、パジャマを脱いでゆく。空き地にでて、すべてのひとたちに伝えるべく、より一層注目を集めるために全裸になり、腕を大きく振って、自工が原爆造ってる! 自工が原爆造ってるぞ! と声を嗄らして叫ぶ。みな、ネットに接続せよ、拡散せよ!

 どこからともなく湧いてでた警官らに四方を囲まれ、力づくでパトカーに押し込められる。撃たれる! 狙撃手が狙っているので、乗るもんか、乗ってたまるか! 頭を平手で叩かれ、首根っこを掴まれグイグイ横倒しにして収監させられた。近くの警察署に連行され、バラバラになった衣服をかき集めてきたようで、手際よく玄関ホールで着せられた。俺の父親は韓国人だ! 公務員だぞ! 外国人は公務員になれんわい! 怒声が虚しく響くだけ。

 一挙に芝居小屋に成り果てた尋問部屋で、丸椅子に張りついて、大勢の男たちと対峙する。サイクロプスだ、サイクロプスが見える。遺伝子組み換えと臓器売買の暴走で各地にモンスターが現実に出現する未来がくる。カタカタ、カタカタ、傷だらけの灰色の机に手の爪で言葉を刻み込む。遥か遠く水没した日本列島の海上で、この机が引き上げられるだろう。古代の石板よろしく、現代の記録が発見され調査されるのだ。

 暗殺だ! 暗殺者が壁の向こうにいる。壁沿いのここは危険極まりない。ギチギチに机と椅子の距離を縮める。精神病院という声が聞こえる。早くも入院歴があることが露見したのか。案の定、このまま病院送りになり、また治療に専念する入院期間が始まった。真相を確かめたい漫画をくれた男性がやはり再入院しているはずもなく、ずっと例の娘の存在を脳裏に思い浮かべる日日だった。暴れるため隔離室での生活。苦しい毎日は慣れるものではない。喉の渇きを、どうしても我慢できずに、自分の尿を飲んだ。それでもいつしか一般病棟に移され、この手記を書くことだけが生きる希望だった。

 

 

   

 

声が聞こえてくる病を発症したのは、調子がいいので薬を服用していなかったのが主な原因だった。なので退院する日の別れ際、看護師にちゃんと毎日処方の通りに従うことを諭された。対症療法ではなく、治療薬だ、ともいい添えられる。己の甘い判断を呪いつつ、どうせこの世界は、とどうでもいいように不貞腐れたが、解きたい謎を胸の内に秘め、家に帰ったら、例のアニメ、つまりは現在の世界の成り立ちについて詳しく調べようという強い決意だけは持ったものの、具体的にどうするかはまったく見当もつかず、呆然とママに連れられ家路に着くほかなかった。

 投薬の副作用で、生活の意欲が著しく低下し、昼間でも床に臥す日が続く。どれだけ寝たきりの生活が続いたことだろう。そんな折、ふいにあのとき以来顔を合わせることのなかった、家庭教師をしてくれた隣人の大学生がお見舞いにきてくれた。ママがまた偶然軒先で出会い少年が体調を崩し、入院して退院した旨を伝えたのだという。まえは激怒した自分の境遇の打ち明けも今回はなにも感じなかった。これも薬の作用だろうか。

 前回の入退院前後の期間同様、少年は二階の自室に閉じこもりの生活をしていた。もちろんのこと部屋は荒れに荒れ散散たる情景に瀕しているので、ここに大学生を迎え入れることは、憚られた。そういったわけでひさし振りに一階の居間で彼と相対するのだったが、大学生は目を合わせようとせず、ひどくオドオドした落ち着かない様子である。

 最後に会ったときみたいに黄昏時の淡い光が室内を満たしていた。台所ではママが紅茶の準備をしているようだ。大学生は座布団に正座して肩を怒らせうつむいてなにも喋らない。少年は足を崩し、日課であるテレビ番組を観ている。自室にはテレビ線を繋げていたが、サイズは新調した居間のほうが大きかった。ママが盆に載せたティーカップと茶菓子を持ってきて、どうせまた再放送でしょと、テレビを切るように少年を厳しく叱る。少年は素直に応じるも、大学生が慌てて止めに入ったはいいが、ママの言葉に反対するのにもさらに遠慮して腰砕けになった。

 彼は半笑いの顔で、ママが置いていった茶菓子をパクついて表情を変えていう。ここでは話せない情報があるんだ。僕の部屋にまたきてくれないかい。喋り終わるころにはまたにやついた顔になっていた大学生は、声を大にして、ハハ、元気そうでなによりです、安心しましたよ、と台所に立つママに聞こえる様、わざとらしい放言をし、紅茶を一気飲みして退散した。

 ビデオと同人誌を彼の部屋に忘れていったことを思いだしたのは、数日後にカビ臭くてちょっと懐かしいあの六畳間に通されてすぐだった。あんなに大事にしていた二点についてすっかり忘却していた自分を笑った。退院直後の考えが変わり、現在の彼女の所在ばかりを妄想していて、その始原に遡るのを蓋していたのか。大学生は無言でテレビのスイッチを入れ、ビデオをデッキに挿入した。リモコンを持ち、早送りをし、ある画面で一時停止させ、少年を見ることなくこういった。

 右隅にアナログって字があるよね、つまりこのビデオは当時のテレビの映像で、二〇一一年頃の放送なんじゃないかと思うんだよ、少年は要領を得ない顔つきで画面に集中する。二〇一一年? ところで今年は何年なんです? 判らない、いまの世界はきみが証明した通り曖昧なアニメの世界なんでね。だんだん事態は深刻で悪化しているようだ。全体の時間がなくなって、コミュニティによってのバラバラな時間だけがあるみたいなんだ。アナログ放送が終了したその年に、ビデオの世界もここもなんらかの障害が起き、放送されることなく閉じ込められたんじゃないか、と僕は思うんだ。なぜならそれ以降のメディアの資料がまったく整合性がつかないんだよ。例のビデオと同人誌が残っているのは、どれも私的なきれぎれなもので特定されず、検索に引っかからなかったからじゃないかな。ビデオは、走査線が見えるのでテレビの再撮みたいだしね。だれかが意図的に画一的な情報を消去したんだろう。だって画像検索してもなにしても、テレビ放映しているのに、正体不明なアニメの世界なんだから。

 世界がおかしいのか、自分たちがおかしいのか。二人は、しばらく黙りこくった。なんでそんなことになったんだろう、少年はとまどい気味に大学生にすがりつかんばかりな訴えの視線を送った。デジタル放送に切り換わるまえのときに、いってみないことには判らないな。なにいってるの? そんな無理な話ししてても意味ないよ、もっといい方策があるはずだ! 考えようよ、ね。

 だが彼は遮るようにいう。いままでのリアリティのない展開をみても思考停止になるほど充分に異常な状況にさらされているけど、実はもっと、いや現状により似つかわしいのかもしれないが、うちの大学に変な教授がいてね、なんというか信じてもらうには荒唐無稽すぎるんだが、近所の空き地で壊れた機械を拾ったんだ、でそれがどうやらタイムマシンらしいって教授は主張している、研究室に持ち込んで修理したんだよ、僕も手伝った、でもまだ試験さえしてないんだ、もしかしたらそれで二〇一一年にいけるかも、なんてハハハ馬鹿らしいだろ、いいんだよ、すべては狂っている、狂っているんだ、それに、じつはなんとそのタイムマシンの初期設定が、そのアナログ放送終了直前の日なんだよ、おそらく、なにものかが未来からやってきてこの世界を壊したんだ、大学生は泣きだした。

 いいんですよ、虚構なんだから。僕は信じます。そして僕がタイムマシンの実験台になりましょう。アナログ放送が終わる直前の日にいって、真実を確かめにいきます。ぜひあなたの研究室に連れていってください。いますぐでもいいですよ。僕にもどうしても知りたいことがあるんですから、それにこの世界には死はないはずなので、生きて帰られると思います。

 いますぐはまずい。なによりこの計画は二人だけの秘密にしたほうがいい。教授にも内密にことを運ぶんだ。小学生を危険な実験に使うなんてことが周りに知られたらとんでもない騒ぎになるからね。タイムマシンは一人乗りなんだ、本当は僕が乗るべきなんだろうが、まずマシンに慣れたものが外部から操作しないといけないんだよ、残酷で情けないけどきみに任せるしかない。一週間、待ってくれ。夜こっそり研究室に忍び込む算段を立てておくから。でも教授に怒られませんか? 案ずるな、きみがしたように説明してみせるまでさ。

 二人は潤んだ瞳で見つめあった。少年も涙を浮かべていたのだ。あの少女の謎が解ける可能性がほんの少しでもある喜びに打ち震えていた。

 もどかしく緩慢なときが流れるなか、甘美に彫琢されるみたいな内なる思いを、肉体で包んで、彼女への恋慕に己が不幸の連鎖を重ね、負を切断し、充実した大団円に向かって規則正しく生きるのに努めた。死なないかもしれないが、帰ってこられないのやもしれん。次第にそんな不安が胸をかすった。パパとママとダイニングで、また食事を共に摂るようにした。最後の晩餐の記憶はなかった。いままで見守ってくれた両親に、深く深く感謝した。

 夜の十二時を回って家のものが夢の世界に招待されているうちに、布団より這いでて、用意していたジャージーに着替え、替えの服や薬の入ったリュックサックを背負い、キャップをかぶり、音を立てないよう階段を下り、廊下を渡り、靴を履き、玄関をそっと開いて外に向かう。道路を隔てた塀のまえの電信柱に人影が認められた。影は動き、近づくにつれ大学生へと姿を変える。早かったな、そう彼はつぶやくと、電車はもうないから自転車でいくよ、と隣の木造アパートの駐車場で愛用のものに跨ると、盗難車だけど、それに乗ってと並んでいた緑の自転車を指していった。

 えっ、僕、自転車無理なんです、無理? 乗ったことないの! はい。大学生はもの悲しい顔を薄暗い街灯に浮び表して嘆息を吐くと、じゃあ荷台に跨りな、と駐車場から自転車を引いて道路に止めた。ほんとにきみのパパとママには、ないもいわなくていいんだね、と大学生がだし抜けに背中を見せる格好で訊ねてきたので少年はびっくりした。

 家出したって騒ぎになるだけです、捜さないでくださいと置き手紙を残してきたので。大学生は黙黙とペダルを漕ぎ続け、小一時間かけて大学に着いた。自転車を降りて、二人乗りはもっときついね、と彼はいつぞやのときみたいに息を切らしていう。適当な場所に自転車を止めたのち、少年はじゃあ着いてきて、という頼もしくみえる大学生を従順に追いかけた。校舎にはチラホラ灯りがあった。古めかしい建物のまえにやってくると、ここだ、いよいよだね、興奮を隠さず彼の声は若干震えている。

 潜入は、いとも簡単だった。研究室は、一階隅にあり、大学生は鍵を開け、念には念を入れてか持参したライトを点け、雑然と資料が山積みされている部屋を横切り、隣室の地下に伸びる階段を下りた先に構えた鉄扉を開くと、ビニールシートにかけられた問題の物らしきものがあった。動かしかたは、だいたい判っているんだけど、だいたい? 少年は咄嗟に不安を口にした。大丈夫だよ、一応これでいつのまにかチーフだからね。大学生は、物と距離をおいて立っている細い柱のようなものの電源を点けた。

 これで遠隔操作するのさ、夕飯は抜いてきた? は、そうか夕食は食べなかったのか。えっ、いえいえなんでもないです。タイムマシンで時空を超えるのは、過酷なダメージを心身ともに受けるからね、嘔吐を催したり場合によっては意識を失ったりするかもしれない。はい、覚悟はできています。じゃあ、裸になって。衣服はマシンのなかにセットして、向こうにいったら着るように。少年はテキパキと準備を始める。

 上半身裸になった少年を後ろに、大学生はビニールシートを剥がした。そこにはピカピカに光る球体のふしぎな機械の姿があった。なにぶんなにもかもすべて推量でしかないんだけどね、彼は服を畳んだ上に、キャップと靴と靴下を載せて持っている少年にいった。機械ごとタイムスリップすると考えられる、戻るときは、と言葉を切り、球体についているボタンを押すとなかに潜り込むための揚げ蓋が開き、これを引いてくれればいいと、黄色いレバーを指さした。

 下はなかで脱ぐよ、判った、でも狭いよ、大丈夫かな、じゃあ、もう乗っていいの、ああ準備万端整った。眼鏡は? あー、いけない、いけない、それも服と同じ開き戸にしまって。少年は中腰になって、片足を上げるとおずおずと揺れてバランスを崩し、のめり込むように入口が開いた球体の機械のなかに身体を突っ込んだ。強か頭部をクッションの利いた座席にぶつけた。いてて、壊れてないよね。

 体勢を正常に戻し、パンツに手をつけていると、大学生が揚げ蓋に手をかけ、覗く格好で、きみは覚悟ができているようだけど、と続きの言葉を詰まらせたあとで、理論的には過去にしかいけない、絞りだす慚愧に堪えない物言いだった。少年は、にっこり笑った。感動屋の彼は瞼をしばし閉じ、端から判っていると思うが、タイムパラドックスは気にしなくていい、世界を変えてきてくれ、といい僕はありがとう、と返した。彼が預かっていた所持品を少年に渡した。リュックの上に封筒が載っていた。なにかと訊ねると、彼は過去の自分に渡す手紙と幾ばくかの現金が入っていると打ち明けた。困ったときは僕を訪ねてくれ、きみのいうことを信じないかもしれないが、この手紙を読めばきっと力になってくれると信じているよ。そして、パンツ、あとシートベルト忘れずにな、というのが彼との最後の言葉になった。彼は柱に戻り、モニターを見ながら神妙な顔でしめくくりの作業をする。二〇一一年七月二十三日に少年は、タイムトラベルした。光の塊が消えたあと、室内に床をコツコツ叩く音が谺した。

 

 

   

 

 到着の心配はすべて杞憂に終わった。吐き気も失神もないままに、少年は軽やかな足取りで日光輝く見慣れた空き地に立ったのだ。もちろん眼鏡をかけ、衣服も身に着け、リュックを担ぎ、キャップを目深にかぶり、土管の裏に、球体の機械が置かれている佇まいが異様なのを除けば、元気溌溂のなんの落ち度もない小学生である。目のまえの世界も、何年下ったのかは定かではないが、何の変哲もない景色だ。未来人よりさきかあとか。もう一台のタイムマシンはざっと見渡す限りにおいては見当たらない。うまく隠してあるのか、修理したマシンは日にちの設定はできても、正確な時間までは無理だった。いくらかタイムラグと場所の誤差があることが明らかだ。

 それにしても、ほんとにここはまえと違うのか、狐につままれた面持ちだ。しかし、そんな悠長なことを考えている暇なんてないのだ。すぐ行動を起こさねば。まず大学生はいい忘れたようだが、球体内部にあったビニールシートでマシンを隠そう。まだ目にはついてないはずだ。シートを土管の上に載せ、自分の歪んだ顔を映して、信じられないほど軽い球体をコロコロ押して空き地の奥の茂みに移動させ、上からシートをかぶせた。これでよし。少年は踵を返すと、走って自宅へと向かった。

 街にも変化はなかった。息も絶え絶えで家までやってくると、鍵が開いている玄関を確認して、そっとなかを、呼吸を整えつつ、うかがった。しめた自分の靴がない。この時代の僕は、どうやら外出中らしい。少年が考えていたことは、この日の自室の本棚に例のビデオが置いてあるのかどうかだった。あれをだれが持ち込んだのか。そこをとっかかりに愛する少女の正体を暴き、ひいてはこの世界の謎が解明できるもんだと強引にも信じていたのだ。

 いざとなったら自分を問い詰めるしかない。あとは未来人がなにかしてくるのを押し入れに隠れて様子をみるか。そんな新しい計画を企てつつ、靴を持って侵入し、階段で音を立てないよう慎重に上がる。だれもいないはずの部屋のまえでリュックに靴をしまい、ドアを開けると、布団を敷いて寝ているものと、見知らぬ猫が一匹、学習机に乗っていた。珍しい青い毛の猫だ。赤い首輪に金色の鈴をつけ、尻尾のさきも赤く、耳がなかった。寝ているものは、頭から布団をかぶっており、おそらく自分なんだろうが、昼寝をしているのか。

 青猫は憔悴しきっているみたいでハァハァ息をしていた。目線をようやく上げ、少年を認識したと思ったら、やあ、ちょうどいいときにきたね、と喋った。裏山にでも遊びにいったの、その格好は。少年は布団の自分の声だと信じたかったが、声音が違った。とにかくなにかの聞き間違いだろうとドアを後ろ手で閉めて、静かに入室する。そこに寝ているの二十二世紀からきた殺し屋なんだ、僕たちがタイムパラドックスを犯す罪人と決めつけて抹殺しにきたんだよ、でももう大丈夫、奴の記憶も消したし、姿も変えさせて、無能力化したから、平気さ、安心していいよ。

 えっ、死んでいるの? だれが喋っているのかまだ判然としないので少年は周囲を見回してそういった。殺してないよ、こいつは人間だからね、僕は人殺しができない。ずっとここで暮らしてもらうんだよ、連絡がなくて不審に思って新手がやってきてもダミーになるだろうし、それなら言い逃れができるだろうしね、それで僕たちは逃げなくちゃいけない、いますぐにだ。少年の目の焦点はぼやけ、頭が沸騰するように熱くなった。

 眠っているの? そうさ、さあ彼女も連れていくよ、すぐ連れてくるんで待っておいで、そう声はいうと、いつのまにか猫が視界より消えていた。少年は、なんだかとんでもない思い違いをいままでずっとしてきたかのような、なんともいえない心境に落ち込んでいった。しかし足が動き、本棚のまえに立ち、ガサゴソ本をさばくると、お目当てのビデオテープがあった。調べはついている、このビデオは少年の所有物だ。え? 全身を稲妻がほとばしる。そうだ、いま思いだしたぞ、俺は二十二世紀からやってきた殺し屋だ!

 ひとの気配を感じて、ふと机に向き直ると、青い猫とピンクのワンピースを着たおさげの女の子の姿があった。彼女がゆっくり振り返る。あの少女だ。俺は腰ベルトに差してあるナイフに手を這わせた。さあ、いくよこれより現実の世界にタイムワープする! いまの名前を捨ててきょうから二人は別の人間として生きるんだ、いいね。この世界での僕と彼女の記憶も記録もすべて消す。女の子が泣きだす。え、大げさすぎるって、と泣いている彼女の反応に、妹によると実はことがでかくなりそうなんだ、時空警察が動きだすまえに先手を打たないと駄目なんだよ、僕らの無実はいまのところ通らないみたいで、さらに大罪を犯すことにはなるんだけど僕らのためなんだ、でも妹が問題を解決してくれたら、またもとに戻れると思うよ、約束する、という。好奇心に駆られ、思わず聞き入ってしまう。そう喋っているのはやはり猫で、奴は机のひきだしを開くとなかに飛び込んでしまった。

 少女も躊躇なく続いてなかに吸い込まれた。ターゲットは三人。猫、少年、少女。雇い主がだれかは思いだせず靄をさまよっている。ひきだしのなかを覗くと、巨大な空間が下に広がっていて、空間内に浮いている台の上に猫と少女が乗っている。猫がなにやら操縦棹のようなものを操作する。謎の空間にはアナログ時計が奇妙に歪んで溶けているみたいな図像が、無限に蠢いている。俺は台の上に飛び乗った。そして猫を背後からナイフで一刺しした。

 馬乗りになり、後頭部や背を何度も執拗に刺し続けた。こいつロボットなのか! この世界に死はあるんだぞ! 刃の欠けたナイフをめり込んで配線やらが飛びだしている首元から引っこ抜くと、猫は最後の力を振り絞ってか眼前のボタンを押す。すると宙に浮いていた台が動きだした。そっちに気を取られていると、猫がすごい顔で飛びかかってきて、その勢いで俺と猫は台をはみだし、奈落の底へと落ちていった。ずっと少女の悲鳴が聞こえているようだった。

 

 

   

 

惚けた目の子で、暮れゆく夕空を見つめている。瞼を閉じ、赤い滲む血潮が逆巻くインナーワールドに沈んでまた橙色の落日に移り変わってはまたサイケデリックな一人の内省へと向かう。お遊びは、ここまでだ。分離しているんだ。景色を見るのと同期して内省ができない。夕陽に引っ張られる。光で頭が一杯になる。意識の回復につれ、身体的苦難がいじわるに待ち構えていた。動くだろうか。軋む手脚に上から順繰りに力を入れようとするも、激痛が走り、倒れたまま瞑っていた目が開き坂になっている途で天を仰いだ。あの猫、人殺しできないっていったのに、これは未必の故意なんじゃないのか。俺の攻撃で制御プログラムが無効にでもなったのか。キャップは、どこかへ飛ばされており、リュックは自身の体重で潰れている。

 再度、逆さに日没を視野に入れ、ここは何年だろう、とやっと外と内とがスムーズに遮断されることなく、相反する事物と事実が合致しても苦にならずに続行させられるようになった。

 曲がった眼鏡のフレームが、引っかかっている耳に、なんとか収まっている。だが、起き上がれば、すぐにでもバランスを失って外れてしまうだろう。遠くの風景は、認識できるも、首が固まっているため、間近の空間把握ができない。地面は人工的に造られているのだが、神経が届く指の感触で掴められるくらいだ。距離を隔てられた太陽の近景には大きな木立とフェンス、四、五階建ての校舎のような建築物などが見てとれる。陽は、どんどん傾くとともに、周りの暗さが増すなかで、より輝きを、己の有終を飾るように、そして断末魔の叫びみたいに往生際悪く、この世界に浴びせている。

 自分は、もう死ぬ。さきほど雷鳴の如き直感で知らされた思いは、真実だろう。任務は遂行の達成を果たせないで終わる。しかし俺の存在が本当はなんだったかが判っただけでもよかったといえる。でも自身の塗り重ねてきた人生の時間、運動の記憶はまったくもって綺麗さっぱり拭い去られていた。名前すら頭に浮かぶことはない。ただ俺の職務がぼやけた脳裏に、刻まれているのだ。

 血液が脈打つ早鐘が、ゆるやかにその速度を落とそうとしていた。日没前、最後の光は、ますます赤く燃えたぎり、俺の血の止まる瞬間まで、まだ明度を維持してくれるらしい。いや、とっぷりと陽の沈んだ暗がりの空間で、安らかな終わりを迎えたく思う。太陽が没するのを見届けてから逝きたい。同時に死にたい。そうだ、俺は太陽とともに、いやあの燃え盛る恒星に赴くんだ。長い旅になりそうだ。きっとなる。きっと。違う、俺は光のスピードで、アンドロメダまでいくんだ。これこそ気の遠くなる旅路だ。

 見納めにしようと、上目遣いで眩しい発光源を睨みつける。茫漠たる薄れた記憶の海に、しっかりと残すために。赤く燃える横にたなびいた雲がなによりも美しい。死んでもこの光景だけは、額に入れた名画のように保存しておきたいと願う。感傷的な最期だ。我ながら恥ずかしい。ゆっくりと目を閉じる。最低だ。俺には魂がない。自意識だけ。死んでも、永遠になれない。こんな大言壮語な願いなど、人類の記憶の大海に呑まれて、なんのことだったかなんて、すべて忘却の彼方だ。

 夥しい赤で塗りたくられた自閉する場に、漆黒の闇が訪れようとしている。孤絶された哀れな有機体がついに天に召される頃合にとうとうなったわけだ。

 そのとき、地面を響かせる靴音が鳴った。ツカツカ、間の空いたピッチが、いきなり速まる。どんどん近づいてきて、ピタリと止まった。目を開くことができない。かぐわしい香りがしたと思うと、どうしたの、と声をかけられた。女性なのは間違いないだろう。血が。女性は助けを呼ぼうとしている。俺は最後の力を振り絞るというより、全身の力を抜いて目を開けた。ぼんやり片足を上げてフェンスに止まっている鴉を見る。ああここはもといた狂った世界だ。戻ってきたのか。あ、そういえば、タイムマシンの柱が六芒星の形だった。すべて運命だったんだな、とふいに降りてきた思いを静かに確信した。

そして、続け様に雇い主にもゆき着いた。こんなベレー帽をかぶった女性だった。彼女は俺を見棄てたんだ。猫たちを追ったんだろうが、俺が仕留めた。突然、リボンをつけた黄色い猫が光って猛然とやってくる。陽は沈んだ。俺は生きている。俺の名前? 名前を呼ばれた気がした。ナイフを強く握りしめ、振りかざす。

俺は、あの娘が好きだ。

つぎの瞬間、眼鏡がずれ落ちた。牛乳瓶の底のような眼鏡だった。

大人が、デイパックを背負い歩いている。空家に独り佇むもの。下宿で暴れて任意入院する男。退院し、誰もいない部屋で、饒舌に会話している。自殺企図をし、朝に全裸で警察に捕まり、解放後、深夜大学に忍び込み、日が明けて空き地で目を覚まし、また空家に忍び込み、そして学校で倒れているのは、無精髭を生やし、髪がボサボサな度の強い眼鏡をかけていた大学生そのひとだった。血が噴きだす。