ウィッカーマン、買えばよかった

物語の構造分析

物語の構造分析

きょうはメグリアへ行ってきました。
きのうお伝えしたように、盛田隆二の新刊文庫とミセスを買いに。
ミセスだけ購入。
3冊あったが、あとはボロボロのだった。
まえ週刊ポストを購入しとき、レジが混んでいたので、その隙をうかがって、8冊くらい平積みされているその雑誌を下のほうまで掻い出して吟味に吟味を重ね保存がいいものを探し買ったはいいが、家に帰ってなにげなく表紙を見ると、貫地谷しほりの顎の下に黒い線の汚れがありました。
お目当ての真木よう子は少々汚れている程度でしたが。
今回のミセスを買う段は棚のまえにずっと女性がいるのでなかなか近付けず、時間を置こうとCDショップでケシャなんかを眺めてたり、ニコラス・ケイジじゃないほうの元祖ウィッカーマンのDVDをなくなってずいぶん時間が経つけど探して立ちくらみしたり、エヴァ翼をくださいを聴いたりして、もとの棚に戻るとまだ同じ人が陣取っている。
しょうがないからあきらめて横から手を伸ばしミセスを少々立ち読みした。
北野武とアニエス・ヴァルダの記事もある。
ほかの2冊も手にとってボロボロだったのは先述の通り。
しかし1冊から隣のエクラ付録のミニブックが飛び出してきた。
ずるはせずおとなしくレジへ。
1000円でした。
ウィッカーマンはネットで1300円くらいで買えるが、地元で消費したかった後悔がある。
これはきのうのハーバード白熱教室コミュニタリアンの考えと一致するか。
いわゆるローカル思想。
善と共同体の話。
村=国家=小宇宙、より身近な共同体への忠誠心?
人類へのコミットより、家族との絆にまずは重きを置くべきなのか。
そうするとパレスチナ問題は一切解決しないような。
ローカルの共同体より、人類の善を優先させるときもあってしかるべきか。
だからウィッカーマンはどこで買ってもいいのか。
小説も独占資本企業に送っていいのか。
それはまたべつか。
ローカルが悪の場合が問題なのか。
きのうの朝日の読書面にも鴻巣友季子マイケル・サンデルのこれからの正義の話をしようを紹介していた。
悪と戦う、楢山節考、みいら採り猟奇譚、私を離さないでなどの正義についてのゆさぶりの文学が挙がっていた。
筒井康隆、漂流 本から本へ 第60回。
フライの批評の解剖。
文学の様式の変遷を解説。
最初は神話の時代の人間や環境より優れた神。
つぎに恋愛小説・冒険小説の英雄的人物。
さらに悲劇の時代の環境に負ける英雄。
リアリズム・喜劇の人間と環境が普通の人物。
とつづき最後に諷刺・アイロニーの時代の普通の人間より劣った人物。
そしてまた神話の時代と戻っていく。
大江健三郎井上ひさし石川淳丸谷才一なども神話的。
村上春樹もそうだろう。
蓮實重彦が小説から遠く離れてで指摘した通りずっと日本文学は同じ構造を踏襲しつづけているのか。
神話と自然主義は両極だともフライは言っている。
神話の物語構造をどうにかせんといかんのか。
大塚英志物語論で読む村上春樹宮崎駿にないか書いてあるのか。
バルトの物語の構造分析にもなんか答えがあるのか。
保坂和志が書きあぐねている人のための小説入門で取り挙げていたような。
メグリアで走ることについて語るとき僕の語ることやそのノブは心の扉を立ち読み。
羊をめぐる冒険は群像編集部には理解されなかったそうです。
ロシア語訳はこの作品からだとか。
スペイン語訳は国境の南、太陽の西で大ヒットしたとか。
きょうはカメルーン戦か。
中津江村が懐かしいですね。
あれから8年か。
だいたいそのころからいま使っているバイオのノートパソコンで小説を書き始めた。
そろそろ自分の代表作を書けるようになりたいもんです。
のーん。