文芸漫談とトルストイとゼロ年代の50冊

光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)

光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)

きのうは名古屋まで文芸漫談を聞きにいったので、ブログを休みしました。
行き帰りの電車で後藤明生の「関係」を読みました。
もうすぐ読み終わります。
文芸漫談in名古屋はミッドランドスクエアの裏にあるウィンク愛知(名古屋産業労働センター)の小ホールで開かれました。
おなじみのいとうせいこう奥泉光の二人組。
この企画の印象は当初より決していいものではありませんでしたが、奥泉さんの前フリだった「文学力」の話を聞いて考えが多少改まり、本題の乱歩の「人間椅子」についての掛け合い漫才のようなおしゃべりにすっかりはまってしまった自分がいました。
文学力とは何事にも動じないということのようで、鈍感力の小さなことにクヨクヨしない、とは違うそうです。
むやみの感動しないというか、感動を相対化するというか、そういう意味らしいです。
大江健三郎が「作家、自身を語る」のQ&Aでなんとか力という日本語は嫌だといっとりましたが。
話を戻しますと、ここでの力は、経済力や暴力には真似できないこころからの心酔が可能な文学や宗教を押しとどめる力として使われるようです。
はたして本当にそうだろうか? という内心の問いは高橋源一郎も「1億3千万人のための小説教室」でいっていたような。
そういう疑いの批評眼が文学力なんでしょうか。
細かい言い回しは忘れてしまいましたから、憶測の域を出ませんが。
そのように考えますと、人間椅子への容赦ない突っ込みも頷けます。
乱歩もそんなあらさがしを怖れて、最後のオチとしてすべて創作だったという付け足しをしたんでしょう。
奥泉さんはこんなオチはいらないと主張し、タイムマシンに乗って、乱歩にアドヴァイスしたいといっていましたけど。
また前フリで乱歩が編集者としての力もあったとも解説していました。
雑誌・宝石を起こしたり、新人の発掘に力を注いだり。
島崎藤村菊池寛などのことも出ました。
そしていまの時代も乱歩がいた時代と似、自分たちで新しい力を動かすことが必要だとお二人の話を聞いて思いました。
現代の作者と編集者の分業制ではない、もっと自由な創作のあり方を模索したいです。
それから乱歩の少年探偵団物はほとんどゴーストライターというかチームで書かれていたことを指摘していました。
特に後期は。
両氏とも少年探偵団は中学時代に読みいまもその年代に読まれているといってましたが、私は小学生時代のほうがピンときます。
対談後、サイン会もありましたが、MJにパフュームが出るので早々に引き上げてしまいました。
お二人がどんなサインをするのか興味はありましたけど。
それにしても奥泉さんが小さくてかわいらしい方でした。
蝶ネクタイをするわけも判った気もします。
フルートも吹いて頂きました。
いとうさんの朗読も良かった。
多和田葉子のときの即興フルートも良かったけど。


世にも奇妙な物語三谷幸喜脚本のをETV・トルストイを観ていて観逃す。
しかしトルストイで満足。
トルストイ-ガンジーキング牧師といった流れがあるとは。
トルストイを見直しました。
小説はゴミ束だが哲学・宗教の本は読んでほしい、とは。
家出も狂ったからではなく、家族との財産放棄の話し合いに嫌気が差してのことだとか。
太平洋戦争だけが悪くて日露戦争は大したことではないという考えが大きな過ちである。
奥泉さんが日露のとき日本兵の士気は低かったといっていたが。
ひどい戦争だったようです。
勝っても負けても戦争は人を退歩させる。
いかに頭の悪いというかずるがしこい人が現在にもいるということだ。


朝日新聞ゼロ年代の50冊。
シンセミアが辛うじて入っているなあ。
この機会に2位の海辺のカフカ(下)と3位の告白(1/3読了)を読むか。
感想を募集ともあるし。
せっかく百年読書会の呪縛から逃れられたと思ったところだが、なにか枠がないと読めないものだ。


4月3日にユーストリ―ムで古井由吉町田康柄谷行人の文壇バー「風花」においての朗読会を聞く。
古井さんは俳句、町田さんはテースト・オブ・苦虫、柄谷さんは新潮10・1のマサオ・ミヨシ追悼文。
古井さんは最後とかいっていたような。
新潮が仕掛け人。
同じく3日にNHK教育「スコラ」坂本龍一浅田彰も観る。
土曜日がせわしなくなりそうだ。


こういう生活を創作にフィードバックさせるのは時間がかかるのかもしれないが、あくまでゆとりをもって、静かに小説を書いていきたい。