高揚感

ニューヨーク革命計画 (1972年)

ニューヨーク革命計画 (1972年)

君にサヨナラを(初回生産限定盤)

君にサヨナラを(初回生産限定盤)

なにか胸騒ぎがとまらない。
なぜだろうか。
じぶんの小説がだれかさんに読まれていると感じてか。
買ってくれた人はほんともメルキドを読んでくれているのか。
はなはだ心配である。
きのうの「TR」の中村佑介
一瞬その容貌にとまどったが、だんだんなれてきた。
ひとを楽しませるための努力が尋常ではないと感じた。
私の小説にはない姿勢だ。
そこが私の欠点だ。
自分のことで手いっぱいで、相手のことを考える余裕も優しさもない。
あいかわらず客観視もできていない。
独りよがりなのか。
広小路尚祈はそれでいいといっていたが。
私の小説を読んでみんなが楽しむというようなイメージがわかない。
新人賞とか芥川賞とかノーベル賞とかにあたまがいっぱいで、はじめの対読者に眼がむけられていないのか。
かなしいことである。
おもしろい小説を書きたいといってはおきながら、すべて自分目線だ。
芸術は埴谷雄高にいわせれば、内的自由の追求、バタイユも自分が自分でなくなることに重きをおく。
スーザン・ソンタグ水谷修も自分について考えるなという。
小説は自我ではないのだ。
そういう無私の考えがたらない。
かといって読者だけのことをかんがえてやっていくエンタメの姿勢も、なにか拝金主義の奴隷な気がしていやだ。
なにか奇妙なことがしたいのだ。
サーヴィス、受け狙い、すりより、娯楽な面ももちろんあるけど。
賞を獲るのがおもしろいことで、読者を楽しませることをおもしろいことにしないというのも問題だが。
第三者の自分ならざる他人の眼をやしなうことが、やっぱり必要なのか。
それにはまず自分が楽しまないといけないが、どうも雑事になってしまう。
アラン・ロブ=グリエの「ニューヨーク革命計画」みたいなすごいものを書きたいのだが。
どうしても、ありきたりな自然主義とその場しのぎの寓意に終止してしまう。
こまったもんだ。
胸騒ぎはとまらない。
きのうのMステ。
桑田圭祐の新曲のコーラスがなかせるね。
これからの10年いい10年にしようと感じさせてくれる名曲だね。
あゆもすごかったし。
マッチとスノープンリンスとマッキーと遊助はいいとして。
アジカンバンプと事変がランキングにはいっていた。
どれもダウンだけど。
アメトーークの口軽い芸人とナイトスクープを見逃し。
秋元アナも原稿を打っていて観られず。
平井アナの美脚はちょっと観られた。
あすのサンドラは藤井か。
安部礼司を聴き逃さないようにしよう。
模索舎の原稿とホームページの更新と楽天オークションの登録といろいろやらなければならないことが多い。
創刊号のオークション終わりました。
1冊も売れずに内心ほっとする。
これで冷静に戻れればいいんだが。