完成はしたけれど

パワー系181

パワー系181

文学の未来

文学の未来

同人誌、ついにきょう印刷所に郵送してきました。
ほぼ1年がかりで、小説50枚、評論30枚、詩2ページ、レヴュー1ページをようやく仕上げることができました。
完成を祝って近所のケーキ屋さん、デコレで栗ショートを買って食べました。
久方ぶりの充足感を得て、日課の新聞読みを優雅にこなしていると、夕刊に清水良典先生の「東海の文芸」という記事が目に入る。
何回か取り上げてもらったことがあり、今回の完成した同人誌も送ろうと思っていたので、親しみを感じる記事だ。
楽しげに読み進めていくと……
ノーン!
なんじゃこりゃ、私の小説とそれぞれにひどく似ているエピソードばかりの作品が2作も取り上げられている。
佐藤慎祐さんの「透過性存在」と小久保修さんの「猿の見る夢」
まず舞台が佐藤さんのと同じ渋谷ということ。
あと佐藤さんのにはゾンビが出てくる。
私の小説のタイトルは「ゾンビの遅い夕食」だ。
しかも私のはタイトルだけで明確なゾンビは出てこない。
これも褒められている佐藤作品のいいところをちょっと拝借しましたというような印象を与えないか。
あとは、小久保さんのに出てくる猿。
野生の猿が街に出てくるというもの。
私のはファミレスでムササビが保護されるというもの。
この記事の全体的なテーマであるファンタジーというのも私の作品に出てくる、非現実的な展開というものに合わせられるだろう。
完全にこの原稿を見てからパクって、清水先生に取りいろうという魂胆だと誤解されてしまうような。
どないせーちゅーうねん。
この1年が水の泡か。
「東海の文芸」は捨て、三田文学や読書人とかに期待をもとうか。
釈明の手紙でも添えるか。
でも冷静に考えると、あまりうまくいってない作品なのかも。
集合無意識というか、象徴的なイメージをつなぎ合わせた時代の空気をみな吸っていて、それがたまたま小説の形で似かよった素材であらわれただけともいえるが。
先端をいく表現の想像力がなせるわざなのか、それともこれほど似てしまうのはよくあるイメージに流されているということか。
どれも新規なアイディアではなく、だれでも考えつきそうなものだけど。
でも1箇所にこうも集中するとは。
文芸誌の新人賞もこういう似たような作品が多々あるのだろうか。
ただの偶然なのか、ありきたりなイメージに囚われた病なのか。
もう1本早稲田文学ように書いている青春小説も、ありきたりなものなのかな。
自分が書く意味があるのかと自信を失ったほうがいいのか。
それとも新聞に載るようなひとたちとかぶっていることは、いいことなのか。
1人の個性よりも、塊の運動体として個性であるとおもったほうがいいのか。
清水先生と墨谷渉、広小路尚祈の「なぜ小説」という鼎談がシマウマ書房である。
なんかいくのが恐ろしくなってきちゃった。
清水先生の熱狂的な信者だと思われたらどうしよう。