自分の評価と周りの評価

帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

同人誌用の現代詩がようやく完成しました。
高橋源一郎の現代詩手帳特集から影響を受けて書いた散文詩です。
出来映えは未知の領域で手ごたえもなにもありません。
2ページの詩です。
小説風な。
きのう「青春リアル」を観ました。
パソコンで作業しながらだったので半分くらいしか頭に入ってきませんでしたけど。
第2期の最終トピックだったようです。
早貴のトピック。
「欠陥だらけの私、受け入れたいんですが」
こういう場合、夜回り先生水谷修みたいに、自分の評価は鏡がないのに自分を見ようとすることと同じで、不可能なんだからやめさい、他人の評価を得れるように視野を広げましょうというような物言いがある。
あと北野武押井守は自分のなかの厳しい価値判断で自分を計るという。
レヴェルの高い芸術家にはこういうことができても、一般人にはなかなかできないことで、水谷さんの意見の方が肌にあうのかもしれない。
青春リアル」でも自分だけの評価じゃなくて、周りの評価で自信を持とうという感じの締めだったような。
自分を正確に見極めることは個人差があって、難しいことなのかも。
自分を客観視するというのも不可能なことなのかもしれない。
エマニュエル・トッドは個人というのは存在しないといっているし。
個人としての自分というのは考えない方がいいのか。
しかし笠井潔なんかは「社会は存在しない」とサッチャーの言葉を本のタイトルにもした。
源ちゃんの孫引きだが、スーザン・ソンタグは自分のことを考えるのはしないほうがいいといっていたそうだ。
これも水谷理論とシンクロする考えだろう。
自分の評価より他人からの評価を気にすると逆に疲れそうだが、身近なひとの素朴な意見でいいのだろうか。
他人の評価ばかり気にし続けると、依存症みたいになりそうだが、かといって自分のなかだけの評価では鬱屈してくるだけか。
難しいバランスである。
そのためには他人のことを知る想像力で補うしかないのか。
想像力=見世物、映画や小説で他人の生と死を体験することが、自分のまたは他人の評価を妥当なものに近づけていくことになるのか。
ちなみに多和田×諏訪の対談レポートも2/3くらい書けた。
一度すべて完成させたが、肝心の対談の様子のまえによもやま話で字数オーヴァーしてしまったので、全面的に書き直した。
今日中に仕上げたい。
明日のブログは同人誌作成駆け込みのため臨時休載します。
きのうは読書もしなかった。