駆け出しの見習い

季刊 真夜中 No.7 2009 Early Winter 特集:おとなのための子ども事典

季刊 真夜中 No.7 2009 Early Winter 特集:おとなのための子ども事典

残光

残光

きょう、帰りに精文館に寄って、「真夜中」(Vol.7)を買いました。
小島信夫の「残光」(文庫)もありましたが、これは我らが書苑イケダで購入しようとおもい自重。
「真夜中」はほとんど読みませんが、なんとなく「リトルモア」のなごりで買ってしまう。
東京にいたときは立ち読みは大分するけど、買わなかった後悔からか。
お金が4000円くらい余るが、「残光」となにを買うか迷う。
せっかくだから、弱点の海外小説を買いたいのだが。
「拳闘士の休息」とか買うか。
それか「墜ちてゆく男」か。
「老いぼれグリンゴ」か。
きのう、大江健三郎の文庫を買おうとして前かがみになったら、着ているウィンドブレーカーの肩口から雨水がドボドボと零れ落ち、床にしたたった。
本にこぼれずよかったが、もし本にかかっていたらどうなったんだろう。
保険とかに入っているのか。
全品買い取りか。
むかし、夢屋書店で「コミットメンツ」を借りたらテープが千切れてしまい、返却したらレンタル代が戻ってきた。
図書館で村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を全集ので、あまのじゃくから第3巻から読もうとしたら、鼻血が本の側面付近に落ちてしまい、あわてて拭いたら血が広がり、水で落とそうとしたら、紙がボロボロになり汚損本になってしまったが、おとがめはなかった。
恩田陸上橋菜穂子の本を買い取ることになったのかどうか、気になるところです。
きのうの新聞広告でガルシア=マルケスの自伝から以下の御託宣。
≪何を生きたか、ではない。何を記憶し、どのように語るか≫
何を書くか、ではなく、どのように書くか、とはよくいわれます。
どのように、というのが曲者で、毎度困り果ててしまうというより、問題意識なくただ、だだ漏れしてしまう。
松浦寿輝が”だだ漏れ”について群像新人文学賞のホームページで言っていた。
34才にして、いまだ駆け出し見習いの私としてはどうしたものか。
34といえば阿部和重なら、「シンセミア」を連載中だし、中原昌也では「名もなき孤児の墓」を「新潮」と「文學界」に連載中だ。
もういい年なのにいまだに私は青臭いことをいっている。
40くらいまではこの状況が続いてもまだ元気でやれそうだけど。
そのさきもどうにか工夫していまの状態が継続できれば満足である。
小説よりも人生を生きる方が先決だし大事だ。
小説は伴走者でしかない。
まずは自分が生きてなんぼの小説だ。
命が縮んでも小説が好きと、中村文則山崎ナオコーラはいうが、そうはおもわない。
だから書くことよりも読むことに時間をさきたい。
桜庭一樹は書く意味は、生きることの意味と同義と「情熱大陸」でいっていた。
たしかにそうおもわないでもない。
でも書くことにそんな大きな意味は感じない。
毎日生きることのほうがよっぽど重要である。
そこまで執筆や読書にのめりこんでいないのかもしれない。
あまり好きでも得意分野でもないのかも。
ただなまけて一生を終えたいだけなのかもしれない。
そういうこともふくめ、人生まだまだ駆け出しの見習いだ。
手相の線も薄いし、運命の歯車はまだ回っていないのかもしれない。
どのように語っていいのか、判らないのです。