10年振りの再会

この人の閾 (新潮文庫)

この人の閾 (新潮文庫)

ノラや (中公文庫)

ノラや (中公文庫)

兄が教えてくれたキトウ氏のメールアドレスは、間違っていたようでまったくつながりませんでした。
それなのでおもいきって、夜に母が「TVタックル」を観ているそばで、これまた兄のメールで知らされたキトウ氏のケータイに連絡してみました。
キトウ氏は残業の帰り道で家のすぐ近くを歩いていたようでした。
私の声が昔と変わっていたと感じたらしく、はじめは私だと気づかなかったようでした。
私の声は幾たびの苦難により、スピードワゴンの小沢のように、こもったような聴きとりづらいものなのです。
ファミレスでも向かいの相手にさえ聴きとりづらいほどなのです。
兄と自分の邂逅の話を彼が夢中でしているときでも、ちがう話をふっかけてしまいました。
結局、どういう顛末でどちらが先に気づいたのか、同時だったのかなどを知りえぬままに話は終わってしまいました。
キトウ氏はバリバリのクリエイティヴ系会社員で、きのうの夜も元気そうでした。
学生時代に出会ったときも、キトウ氏はバリバリの大学生で、私は通信制の高校生でした。
昔の違いがいまでも綿々とつながっており、東京生活で夢見た大学卒業と就職と結婚という線引きで、新しく生まれ変わって、彼と肩を並べるようなステータスは得られませんでした。
なんにも10年経っても変わらない間柄だったのです。
彼のことは私の小説でも度々登場させていました。
いま執筆中の小説にも彼との経験が少し活かされています。
もう一生会うことはないと高をくくって、勝手気ままに、彼のことを書いてきましたが、これから彼が読者になるとするといささか面倒なことにもなるかもしれません。
柳美里の「石を泳ぐ魚」みたいにならないといいんですが。
もっとドラスティックに冷たくされるかもしれないと内心ビクビクしていましたが、案外私の小説に興味を抱いてもらって助かりました。
生き方がまったく逆方向に振れた感のあるふたりですが、友人・知人がふたりしかいない私としては、そうそう捨てた関係ではないのかもしれません。
ヨシムタ氏にはあまり会いたくありませんけど。
それも固定観念なのかもしれませんけど。
過去とは一部をのぞいて、小説を媒介にする以外は決別し逃げてきた私ですが、面とむかって対することもあながち無意味でもないのでしょうか。


いまは保坂和志「夏の終わりの林の中」と村上春樹「ニューヨーク炭鉱の悲劇」「日々移動する腎臓のかたちをした石」、内田百輭ノラや」という猫好き作家の本を順繰りに少しずつ少しずつ読んでいる。
あと「文學界」(09・11)の”文学と出会う場所”の「熊野大学2009」と文學界新人賞の「四次選考講評 『最底辺』ではなく『最前線』」、東浩紀「なんとなく、考える 第十六回 仕切り直し」、池田雄一「メガ・クリティック 第十回 フィクションについて」なんかも読みたいが読めずにいる。
エレファント・マン」も観ないとね。
小説2ページと評論2ページ、詩1ページ、穴埋め1ページも書かないと。
11月24日(火)に入稿する予定。