ルールを変えろ!

生ける屍 (扶桑社ミステリー)

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赤い唇 (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)

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ルールは変わったんじゃなくて、これから変えていかないといけない。
文芸誌新人賞への齟齬感ばかりか、芥川賞ノーベル文学賞の保守的な時代遅れの動向にも怒りをぶつけるべきだろうか。
芥川賞は2005年に阿部和重さんが獲ったからなんとなくいままでのフラストレーションを払拭したようだったが、幻想だったようだ。
その後、星野智幸中原昌也福永信舞城王太郎佐藤友哉山崎ナオコーラ岡田利規、前田司郎は受賞していない。
あいかわらずいまだに現代文学を旧態然とした芸術だと勘違いした、古き良きいにしえの文学臭プンプンの退行小説ばかりが幅をきかせている。
ノーベル賞も海外作品をみると私が完読した作家は、ガルシア=マルケスとパス、辞退したサルトルだけだった。
ざっと挙げてみても、ロマン・ロラントーマス・マン、ヘッセ、ジッド、フォークナー、モーリヤック、ヘミングウェイスタインベックカミュベケットソルジェニーツィンゴールディング、シモン、グラス、クッツェーイェリネック、ピンター、パムク、レッシング、ル・クレジオ……どれも本は持っていたりするが最後まで読んだ作家はこのなかにもいない(自分の不勉強のためだけか。)
ジョイス、プルーストカフカも早死にだからもらってないし。
芥川賞と同じように、獲っていてもおかしくないものたちが獲っていない。
ピンチョンもバース、オーツ、デリーロ、クンデラ、バラード、プイグ、ブランショロブ=グリエヴォネガットなどなど。(これらもオーツとプイグ以外途中までしか読んでいないけど。)
芥川賞と同じようにサブカルチャー系の作家が獲っていないのか。
これは芥川・ノーベルを無視するより、逆に阿部さんに続いて、沼野允義が「文學界」で村上春樹を挙げていっていたように”ルールを変える”必要がある。
肩肘張った芸術然とした死に切った産物ではなく、かといってエンタメ系の空虚な読み物でもない、新しい純文学のルールをつくらないといけない。
磯崎憲一郎は「」(かっこ)の応酬のエンタメ作品を批判的に小説化し、丸岡大介は当今盛んのヤンキー文化を批判する。
磯崎さんやナオコーラさんは、小説を芸術、芸術とよくいうが。
それはつくられた近現代の普遍を持ち出すものじゃなければいいけど。
福永さんは阿部さんの小説をアートだといっている。
ノーベル賞の選考ポイントにも”工芸的な美しさ”というものがあるようだ。
阿部さんの小説に”美しさ”を感じるのは少数だろうか。
それにしても芥川賞ノーベル賞というのは”古い!”といわれる死刑宣告みたいなものだろうか。
村上春樹ひとりがノーベル賞を受賞すればいいのではなくて、これから芥川賞ノーベル賞の候補にも挙がらないような新しい書き手たちがどんどん芥川・ノーベルの価値観を打ち崩していけたらいい。
サブカル系やセカイ系(阿部・中原も含んじゃおう)の作家が、21世紀の世界文学になる日を挑戦して実現したい。
そのためのも芥川賞の候補にも挙がっていない佐藤友哉が、次の時代の革新者として出発点になるのか。
これらをオルタナティヴ・ノヴェルと呼びたい。