まだまだ

火薬と愛の星

火薬と愛の星

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

小説を本腰入れて書き始めてから早7年。
2年のブランクがあるから5年弱ということになる。
小説7作に、中絶2作、評論4作。
進行中の作品が小説2作、評論1作、詩1作。
読者は10人に満たないだろう。
おもしろいものが、現代において意味あるものが書けているかは、はなはだ疑問だ。
松浦寿輝風にいうなら、”だだ漏れ”感がいなめない。
読書もみんなが読んでいるような流行しているか、最近話題にあがっているものしか読んでないし、諏訪哲史がいうところの”反時代性”を体現してはいない。
流されているだけだ。
大江健三郎風に”危機に直面する技術としてもっとも古い文化について語る本に私は注目します”というのを胸に古典を読むほうがいいのか。
創作も読書も、なんでこうも上昇志向をもってしまうのか。
たいしたことはできないのに。
自分の楽しみの範疇をどうして超えようとしたいのか。
資本主義の末恐ろしさだろうか。
しかし、小説はなぜか書かざるえないし、本も買わずにはおれない。
こまったもんである。
むかしは漫画、ゲーム、映画と情熱は推移してきたが。
ここで終点なのだろうか。
自分がどれだけできるか試してみたいのか。
中原昌也に笑われそうだけど。
ブログもなぜか更新してしまう。
たいしたこと書けないのに。
一日多くて30人くらいしか見てないのに。
賞をもらうために生きているわけじゃない。
読者は少なくてもいい。
傑作は書けなくてもいい。
自己顕示欲だけじゃない、謙虚な自己肯定感がほしいのか。
でも「群像」とかに送っちゃおうとおもうのは気恥ずかしさがある。
やっぱり金と名誉がほしいだけなのか。
しかし大手文芸誌には絶対投稿しないというのも、傲慢なような気がする。
売れているものをバカにするような。
川上未映子風の文学への”恩返し”でも、岩隈久志風の”野球(ここでは文学)のために”といったものでもない。
渡辺正行風の”そこそこの芸人(ここでは小説家)”でもない。
森永卓郎風の”まあまあ、ほどほど”でもない。
反対にもちろん、芥川賞ノーベル文学賞を目指すでもない。
まずは磯崎憲一郎風や五木寛之風に”人間の運命”を生きることなのか。
いつか多くの読者を、いつか傑作を、とおもうと森健風に”グロッキー”だが、普通の小説は書けないから、変なものしかできないから、いまはささやかな喜びでいいです。
きょうブース取得の知らせが来た、文学フリマで少しだけ売れれば御の字です。
まずは動物的に目先の現在をみつめ、演繹法独我論ではない、帰納法・経験論でいきたいです。
文学フリマ早稲田文学、東海の文芸を手はじめに、それらを総合して、群像新人文学賞記念受験するということで。
そのさきは芥川賞からノーベル文学賞、10万部から200万部であったとしても、賞のことや売れることは、カントの哲学ように考えないようにほっとこうとおもいます。
”牛のように進め”と夏目漱石風にしてないと、頭がまたおかしくなっちゃうんで。


きのうは阿部和重の41才の誕生日であり、巨人のリーグ優勝。
阿部さんは東北人らしく、大の巨人ファンで特に桑田真澄のファンだったらしいが、いまは楽天だろうか。
村上春樹が「波」(2009・9)で、巨人の阿部慎之介のことを東山動物園のマレーグマに酷似していると書いてました。
阿部和重と阿部慎之介。
阿部和重川端康成ノーベル文学賞を獲った1968年に生まれ、大江さんがノーベル賞を獲った1994年に作家デヴューしている。
これはだれかがノーベル文学賞を獲った年に亡くなるのか、はたまた阿部さんが受賞するのか。
ぼくとしては阿部さんが、ノーベル文学賞の少なくとも候補にはなれるように応援していきたいです。
逆に村上春樹が獲らないようにする活動もはじめたいです。
庄野潤三88才死去。
笙野頼子とは関係ないですよね。
これで「第三の新人」は安岡章太郎だけになりましたか。