永山則夫的作家

無知の涙 (角川文庫 緑 341-2)

無知の涙 (角川文庫 緑 341-2)

きのうのETV「死刑囚・永山則夫―獄中28年間の対話」(アンコール)を再見。
ミミ(和美さん)の話でまたもや泣く。
広い公園のベンチで万引きした国際法の本を独り読む。
死ね、生きろ、死ね。
カーボン紙をして残した手紙類が何万とある。
文芸誌や哲学書の山。
大鶴義丹が載っているすばるがあったような。
死刑当日まで寝ていた布団。
永山的作家こそが真の作家なのではないか。
罪は消せないが。
あまり読む気もしないが。
無知の涙は早稲田通りの古本屋で買い、いま手元にあるにはある。
しかし永山モデルの作家像には惹かれる。
独学と罪滅ぼしとしての執筆活動。
こういう作家になりたいのかもしれない。
理想の作家像。
理想の人生。
私は死んだあとにないか残そうとはあまりおもわないようにしているが、生きているうちに絆のようなものを作りたい。
死んだらすべて忘却と焼却でいいけど。
なにかしらの継続は後付けでどんなかたちにしろでてくる気はするが。
住まいが更地になったとしても、近所を歩いた見えないシミのようなものが残るような。
あとはこのブログとか。
小説を書いているのも歴史に残るような名作を書きたい、というより、生きているいまを動かしたいというおもいでやっている。
自分の人生を変える影響力のエンジンをふかしたいのか。
内部や外部の認識を変えたいというか。
記憶とともに生きていけるように。
そうすると現世利益になるのか。
時代に受け入れられなくても正しいことをすればいいのか。
自分に利益がなくても永山的に利他があればいいか。
自分のためではなく周りや世界の人々のために小説を書く。
いい商品を創るというのでもなく。
消費者としての周りの人々ではなく、ひとりの人間としての人々に向けて小説を書く。
東浩紀は小説は商品でなければならない、といっていたが、商品という価値だけではない小説もあるはずだ。
お金を使って買うとしても。
商品であって商品からもっとも遠い小説。
そんなもんが書けたらいい。