明るいのだが、どうも軽く明滅しているような照明を浴びている。閑散とした得体の知れない店舗の準備が進められているみたいな、いつもは通らない曖昧な地下商店街をぬける。コンクリ階段を一段ずつ確実に登り、屋外の駅前広場のこちらは見慣れた、平均的な街灯と駅の照明との薄暗さの世界へでそうだ。
 まだ見えないが鋭敏な気配で、コンコースはひとであふれ返っているのを感じる。全身検知器。待ちあわせの名所。階段を駆けあがるすぐまえに彼が立っていた。紺色のⅤネックのセーター。左胸に赤ウサギの刺繍がしてある。ストライプの灰色のジャケットにジーパンが、声をまずあげた。
 階段の最上段に登りながら、こちらも挨拶をする。グルッと右回りをして、犬の銅像をお互い視界に収めながらスクランブル交差点のまえまで歩き、止まる。それからふたりして夜道を歩く。
 治外法権の途をいく。やせぎすで背の高いふたりが、ブラブラ歩いている。ここは漆黒の闇。なんだか否応もない多幸感に突然とらわれる。動悸が激しく脈打つ。足の先がキュンキュンする。自動販売機でそれぞれの分のジュースを求めにきただけなのに。片割れはもうすぐ上京をする算段だった。
 もう、お別れなのに。両者の映画にでいりすることも金輪際ないかもしれない。植え込みにゴミが堆積している。近くにクズカゴがあったので拾おうとしたが、手が汚れそうでやめた。灯りのもれる部室のまえに入って
いった。
 そしていままた並んで歩いていることに、不思議な感覚を味わっている。これが最初で最後の再会だった。
 彼の鼻頭は、油が吹きでていた。赤く腫れてもいた。周りを見まわし、あたりを散策する。頃合の居酒屋を捜しているのだ。「山小屋のオヤジ」を演じた私は、率先して歩きはじめた。
 賑わう通りを西に折れ、急な坂を下って突きあたった先、二階に店舗をかまえるおあつらえむきのものがある。チョコレートフォンデュを、近くのフルーツパーラーで食した記憶がまざまざと思いだされた。
 止むに止まれぬ事情から、上京してきた若い彼は、所在なさげにあたりを気にしているようだ。さっきから落ちつかず、ヘアースタイルを秒毎に整えている。私はゴクリと生唾を飲み込むと、小さくある決意をした。私は彼と一年遅れて今年、ある都合で上京した。
 暗がりの一隅で、ふたりは顔を寄せあいしばらくの沈黙を挟んで、この二階の店にするかどうか確認作業をする。ほかにめぼしい居酒屋がないかどうか、爪先立ちになり、左の三叉通りに首をヒョイと斜めにかしがせて向かわせ、覗き見る。あそこの交番で訊いてみようか? 
 よく見えないようでかぶりを振って、私のほうを彼は視界にいれた。私は、もうここにしようと、なかばなし崩し的に話しあいをきりあげて、二階へと続く緩やかにカーヴをえがく階段を半身の姿勢で登りはじめる。
 彼はまだ踏んぎりがつかないようで、肩幅ずつ移動しながら、先の三叉の方向へと歩みを進めつつ、私を気遣ってか、自信なさげに眼をキョロキョロさしている。
 逡巡した彼は、その場に足を張りつけて、微塵も動かなくなった。固まったまま地蔵のようにこちらを一心に見つめ返している。私は半身の姿勢から彼に正対して立ち、登った段差を降りはじめた。彼がいる地点まで降りきると私は、彼に諭すように
「どうした」
 と声をかけてみた。彼はただ
「ここは中華ですか?」
 と答えた。私は彼に背を向け、白い光で輝いている看板を見た。
「エビチリとかはあるんじゃないの?」
「ほっけが食べたいナー」
 彼はそういうと突然駆けだした。あっという間に二階の出入口につき、私のほうに振り返り、手を弱弱しくあげ、なかに消えた。そんなあいだ、私は遅れをとってはならないと、急いで走りだしており、彼の軌跡をなぞるように身体を動かして店内に飛び込んだ。
 二重扉をぬけると、室内はうるさかった。彼はこうべをたれ、棒立ちで、店員のまえに沈黙していた。そこは紅で統一されたデザインだった。テーブルも椅子も壁も床もユニフォームまでも、厳島神社豊川稲荷の鳥居や境内かのような色調である。
「ごめん、ごめん、二名ね」
「喫煙席・禁煙席とがありますが?」
「禁煙で……」
「どうぞこちらです」
 と私はその場を取りつくろいながら、紅店員の誘導するままにあとをついていった。
 目黒での一件を思いだしている。雑踏が懐かしい。クルマのけたたましいクラクションの音さえも…… しかし、耳をすますと下のほうから、ホンキートンクがかすかに聴こえてきている。
 ぼんやりと考える。窓を覗くと外は風が強い。旗がなびいている。旗は背景が黄色で、褐色の肌をした、いかにも好青年といったアジア系男子の顔の大写しである。どこからか加減のいい照明が、きらびやかにあたっており、厳しい日光の陽射しに灼かれて色落ちしているのを際立たせている。
 私はかまびすしい彼のメニューを上から順々に読みあげていくパフォーマンスに、嫌気がさしはじめていた。席を立つと、出入口近くに設置された本棚から、幾種類かの新聞には眼もくれず、電話帳のようなマンガ雑誌を手に取って、うるさい彼の席まで舞い戻った。
 マンガに集中しており、席の縁に紅店員が棒立ちになっていることに気づかなかった。そういえばまだ注文をしていない。しかし、そのまえに水もなにも与えられていなかった。が、すぐ水はセルフサーヴィスだったことを、向こうの冷水器の存在で認知した。
「ごめん、ごめん。注文ね」
「ほっけ!」
 彼が間髪いれずに叫んだ。もうメニューの朗読はすんでいた。
「そうそう、ほっけ。あとはエビチリにシーザーズ・サラダ、アツヤキタマゴに、えーと」
「ほっけ! ほほほほっけ!」
 彼は機銃掃射のようにまくし立てた。よく見るとストライプの灰色をしたジャケットのインナーである、ル・コック・スポルティアのTシャツに、紅い染みがあるのがここからでもわかった。洗濯をしばらくしていないのだろうか? 
 ネグレクト、そんな言葉が頭に浮かんでは消えた。《仏ほっとけ神かまうな》というアニメで覚えた台詞が頭をかすめ、思わず口許がにやりとゆるんだ。
「こいつは仏を喰おうとしているのか?」
 私はまえよりさらに強くかぶりを振る彼を見て、そんなことをとりとめもなく考えた。
《かの過ぎ去った悲しく、また取りとめのない青春》
 魯迅の『野草』の一節を、ジーパンにねじりいれてある手帳から確認した。朝日の大江のエッセイからの引用だった。
《いかにして人間は永遠となるか・・・》
 続いてはダンテの『神曲』の《地獄篇》からの引用だった。実際には『権力への意志(下)』からの孫引きだが…… 《あなたがころんでしまったことに関心はない。そこから立ち上がることに関心があるのだ》エイブラハム・リンカーン。フジテレビ系の連続ドラマで知り、最年少三島賞作家の小説から確認した箴言だった。
「ご注文は以上で?」
 ハッと他者の存在に目覚めた。しまった、思わず自分のことにかまけて熱中してしまった! そそくさと手帳を尻にねじり込むと、笑みをたたえながら紅店員と眼をあわせた。紅店員はオーダーしたメニューを繰り返した。「以上で」紅店員は立ち去った。
 そして、マンガ雑誌に眼を落とす。「聖なる山(パラヒ・テ・マラエ)」三五歳のときに、株式仲買をやめ、画業に専念したポール・ゴーギャン。株関連で生活していたことは『秘密のかけら』から知った。
 彼は押し黙って反対側から、マンガを覗き込んでいる。《自分で自分を殺すなら二十五歳までだな》中上の小説の一節を述懐する。これも先の最年少三島賞作家の険しい時期に書かれた小説にも相似形の引用があった。
 目黒をさらに思う。《二十八歳》春樹の短篇…… 『夏の終わりの林の中』私が小説を書きはじめた年齢…… あの梅雨の季節。顔をあげると、彼と眼があった。電気的信号を送信するかのように、彼の眼が光っている。なにか伝えたいことがあるんだろうか?
 眼をあわしたまま、おたがいに小首をかしげる。なにを考えているのか? お互いに相手の思惑を手探りに手繰り寄せようとするも、こんがらがって終止した。
 気まずさから
「『日々移動する腎臓のかたちをした石』、読んだ?」
 と思わず無遠慮に本心とは違い訊ねたが、返事はなかった。仕方ないのでお冷をくみに席を立った。しかしドリンクはどうなっているのだろう? いつもは、「お飲みものはどうなされますか?」と一番に訊いてくるはずなのに。冷水器の横にはコーヒーカップやマグカップ、ティーカップ、グラス、ソーサー、マドラーなどの類が並んでいた。色とりどりのティーバッグ、シュガースティック、ガムシロップ、コーヒーメーカーやさゆ、コールドジュースのドリンクマシーンなどもある。ドリンクは全部セルフサーヴィスなのか? 彼はアルコール類を止められているが、私は青りんごサワーくらい飲みたい心境だった。だが、アルコール類は見あたらなかった。
 そういえばお通しもない。なんか居酒屋にしては変だった。いつも連れてってもらうのと少し違う。なんだろう。なにが違うというのだろう。こんな馴染めない感じはいったいなんだろう。私は両手に氷をいれたグラスを持ち、眩暈でフラフラしながら、彼の待つ席へと向かった。
 エビチリとシーザーサラダとアツヤキタマゴ、そしてほっけが二皿、私たちのテーブルの上にはまだ一皿も置かれていなかった。ちょっと量が少ないかな。これもいつもみんなといくときと勝手が違っているようだ。パジャマのボタンがかけ違いになって互い違いになっているような感覚。さすがに二人だけでの外出は時期尚早だったか? わからない。ドクター次野に訊いてみなければ…… 私はカバンからケータイを取りだした。
『ヘロデの横顔』『みかけはこはいがとんだいい人だ』『写像球体と自画像』『Fire‐ball』……
 またぞろ手帳をヒップポケットからねじりだして、ケータイの液晶画面と首っ引きで入力する。